前回までに公同会運動に至るまでの社会の動きや勢力について説明しました。今回は公同会運動の狙いと、なぜ明治政府によって拒絶されたかを考察します。
公同会は王族を中心とした発起人7人(8人説もあり)で結成された沖縄初の政治結社です。首里に本部を置き、地方にも支部を設置して、会則を定め、総会や委員会の定例会を開くなど、かなり気合の入った団体でした。そして公同会のメンバーは那覇や首里の都市部だけではなく、地方にも遊説して沖縄に特別の自治制度を設置することに対する支持を呼びかけます。
公同会の趣意書を3行でまとめると
- 日本本土は廃藩置県で人心の統一を見たが、沖縄県はかえって人心の分離を促進した。
- 沖縄県人が今後幸福になる上で、日本人との同化が必要不可欠だが、現状では無理。
- そのため尚家をトップとした自治制度の下で人心を統一し、その後日本化すれば万事うまくいく。
になります。1897年(明治30)に時の総理大臣松方正義伯に提出した請願書も同じ内容です。このロジックは開化党、おそらく琉球新報社に勤務していた留学生帰りの人たち中心に作成されたのではないでしょうか。廃藩置県後の沖縄県の特殊事情を顧みて、特別な制度で対応して欲しいというなかなか良くできたアイデアです。
沖縄の公同会運動は予想以上の反響をよび、沖縄県内では賛否両論で、日本本土は復藩論として冷淡、あるいは嘲笑する態度が一般的でした。1897年(明治30)に明治政府に対して請願書を提出した公同会のメンバーは、時の大臣(当時の新聞では野村靖内務大臣)から「若し尚此の説諭に遵わず、頑然斯くの如き迷心を固持せば已むを得ず国事犯を以て処分せられるの外なかるべし」と通告をうけ、引っ込まざるを得なくなります。
*(国の秩序を乱す輩と判断して)内乱罪を適用して処分しちゃうぞ、ゴラァ!との意味。
明治政府の対沖縄政策の最終目標は「日本本土と同一の制度を施行する」ことです。この点が台湾や朝鮮半島との大きな違いですが、その観点からすると公同会の主張を受け入れることは不可能です。しかも公同会の趣意書を確認すると明治政府にとって絶対に受け入れることができない要点があります。それは
- 長司(尚家世襲の沖縄県知事)の下に事務官等を置き法令の定むる所の資格に遵い、長司の奏薦に依り選任せられ、亦長司自ら任免すること。
です。この提案は簡単に言うと「沖縄県庁の人事権を尚家に渡せ」を意味し、明治政府、特に内務省が特別制度の沖縄県庁における人事一般から締め出されることになります。もしもこの権利が認められると、事実上の尚家の自治特区の誕生になってしまうため、日本人たちが公同会運動を復藩論と誤解し、明治政府が速攻で請願を却下するのも当たり前のことだったのです。(続く)
公同会関連資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/related-documents-of-koudoukai