公同会運動の考察 その4

kouchioyakata

1894年(明治27)に勃発した日清戦役は1895年(明治28)4月に日本の勝利で終結します。前回の記事でも記述した通り、当初は頑固党の人々は清国の敗戦を信用しませんでした。ただし翌96年(明治29)1月に、清国(福州)から東京→長崎→鹿児島経由で脱清人の26名が帰国したことで、頑固党の人たちは清国の敗戦の事実を信じない訳にはいかなくなります。

ちなみに彼等が帰沖した理由は、脱清人曰く「支那より引渡されるにもあらず、……已に戦争にも大敗を取りたるに依り、茲に見切りをつけ、……帰りたる旨を陳述したる由、……」で、つまり自らの意志で戻ってきたのです。ちなみに彼等は沖縄に帰ってきた際に清国風の頭髪と衣裳を身につけ、すっかり清人になりきっていたとのことです。

帰沖した人の中に知花朝章(ちばな・ちょうしょう)がいます。彼は首里士族出身で尚家の命を受けて渡清し*、1896年1月に脱清人と一緒に沖縄に戻ってきます。彼は廃藩置県後も尚家に尽くした人物として知られていますが、何時頃、そしてどのような命を受けて清国へ渡ったかは不明です(小舟で渡清したという物騒なエピソードあり)。ただし帰沖した彼が清国の内情を士族たちに説明することによって、頑固党の皆さんも琉球王国の再興が絶望的であることを実感するようになります。

*琉球救国運動(後多田敦著)によると1891年(明治24)渡清との記述があります。

しかも同年6月に頑固党の人たちにトドメを指すような出来事が起こります。それは当時沖縄に在住していた宜野湾王子尚寅(尚泰候の次男)と松山王子尚順(尚泰候の四男)が天皇陛下から爵位を授与されることになったのです。つまりこの件は元国王尚泰の息子たちが日本の華族に列することで、琉球王家の再興が不可能になることを意味します。そして、爵位授与式に臨んで、両王子が断髪を敢行し、黄金の簪を取り外して旧衣冠を改めたことが、頑固党の人たちの精神にクリティカル・ダメージを与えることになったのです。(続く)


【関連項目】

公同会関連資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/related-documents-of-koudoukai

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