前回の記事において、琉球藩時代の官僚機構の腐敗堕落の一例を紹介しました。王国末期(あるいは琉球藩)の時代の官吏の横暴ぶりは、琉球の歴史を詳しく調べるとすぐに分かるのですが、現代の歴史家は殆ど触れることなく(華麗にスルーと断言したほうがいいかも)、琉球処分の不法を強調する傾向があります。
だからブログ主が、当時の実体を知って貰うべく、気分を悪くしながらまとめ記事として配信しているのですが、実は当時の王府の役人の腐敗堕落の極めつけの話がありますので、この場を借りて紹介します。
文久元年(1861)薩摩藩のお達しによって、琉球国内の銅銭と鉄銭の交換比率を、従来銅銭1文鉄銭50枚から銅銭1文鉄銭100枚に変更します(文替り政策)。民間の産業経済は鉄銭での支払いが多かったので、鉄銭の価値が下落することは、物価の高騰を意味します。最終的には鉄銭の価値は32分の1にまで下落します。
当然、鉄銭で物品売買をしている百姓や無禄の士族は大パニックになるのですが、この政策で暴利を貪ったのが薩摩の商人たちで、ただ同然で焼過糖(余剰糖)を買い取り、市場価格をもって大阪で販売します。つまり農民から黒糖を購入する際にほとんど価値を失った鉄銭で決済したため、薩摩商人たちは笑いが止まらない程にぼろ儲けしますが、こんなことをされると、生産者である農民は本当にたまったものじゃありません。
ちなみに、琉球王府側はこのような実態を把握しているにもかかわらず、有効な対策を打ち出すことができません。むしろ王府側も買上糖(黒糖)の買取りに価値の下落した鉄銭で決済したので、薩摩商人たちと同じく暴利を貪ることになります。まさに鬼と悪魔がタッグを組んで農民を徹底的に搾取しているようなもので、むしろそのことに対して何の痛痒も持たなかったところが、当時の王府の役人の実態だったのです。(参考までに買上糖の銅銭買取は明治12年から実施する予定でした)
もっと酷い話になると、間切(あるいは村)を領有している地頭階級は、支配地域の農民たちを一定期間使役する権利がありました。ただし労役は農民の負担が大きいということで、金銭をもって代納するように制度を改変します。これが夫役銭と呼ばれる税で、従来は鉄銭で支払うのが慣例でしたが、文久元年(1861)の文替りの政策で、鉄銭の価値が絶賛下落すると、地頭たちは鉄銭の徴収を拒否し、農民に労役を強要するようになります。結果、支配地域の農民は貨幣の価値下落にプラスして、地頭たちの過酷な搾取に堪えなければならない悲惨な環境になってしまったのです。
琉球・沖縄の歴史において、支配地域の住民を最も差別し、かつ過酷なまでに搾取したのは文久元年(1861)から明治12年(1879)の琉球王府の上級士族、およびその手下である官吏たちと断言しても間違いではありません。このような歴史的事実をスルーして、明治政府の廃藩置県の不法を必要以上に断罪する論調は、はっきり言って公平さを著しく欠いた参考にする価値のない歴史記述としか思わざるを得ないのです。(続く)