沖縄県から選出された県外出身者の代議士(衆議院議員)を改めて調べてみたよ

10月24日付けの当ブログ内記事『ミヤザキ政久(宮崎政久)さんの落選を惜しむ』内において、記述内容に一部ミスがあることが判明しましたので、今回訂正の意味もこめて我が沖縄県から選出された県外出身者の代議士(衆議院議員)を再度しらべて見ました。

先ず県外出身者の衆議院議員さんは5と記載していますが、実は第20回衆議院議員総選挙で落選し、その後繰り上げ当選した小田榮(おだ・さかえ)氏も厳密には県外出身者(広島県)です。ただし彼は明治45年(1912)に沖縄に移住し、大正7年(1918)に沖縄第一中学に入学(ただし4年次中退)、つまり教育は沖縄で受けています。その後も沖縄県で社会活動、および県会議員も務めていますので他の候補者とは経歴が違います。それ故に彼は除外して県外出身者の沖縄選出の代議士(衆議院)は5名でいいかと思います。

もう一つ「しかも2期つとめたのは麓純義(ふもとすみよし、鹿児島県出身)と宮崎さんの2人です」との記述ですが、これは誤りで“連続して2期務めた”が正解です。この点はブログ主も後から気がついたのですが、竹下文隆(たけした・ぶんりゅう)氏が16回(1928)と18回(1932)の衆院選で立憲政友会から立候補・当選していますので、衆議院議員を2期つとめた県外出身者は3名です。

いろいろ調べて面白いと思ったのが、麓純義氏と宮崎さんは弁護士出身、第16回衆院選(1928)で当選した亀割安蔵(かめわりやすぞう)氏と宮崎さんは同じく長野県出身であることです。まぁ単なる偶然でしょうが、こんなところに共通点があるのも実に興味深いところです。

県外出身者の沖縄県選出の代議士で一番の大物は麓純義さんで、高嶺朝光氏の『新聞五十年』によると、明治20年代に鹿児島から来沖して、沖縄の弁護士第一号となった法曹界の長老格、大正12年(1923)には那覇市長に就任、那覇市の政財界に大きな影響力を持つ存在でした。ただし彼の那覇市長時代は中央の政争(立憲政友会vs憲政会)に巻き込まれて最終的には辞任を余儀なくされました。

手塚正次(てづか・しょうじ)、亀割安蔵の2氏はいずれも立憲政友会に属していて、沖縄には縁もゆかりもなかったのが共通点です(竹下文隆氏は沖縄県知事をつとめた高橋琢也氏の娘婿の関係上沖縄から出馬した経緯あり)いわば政党の都合で立候補、当選したようなもので、『新聞五十年』にはこのあたりの事情が記載されていました。是非ご参照ください。

大正13年5月の衆議院選挙に、沖縄第二区(島尻、宮古、八重山)から山梨県出身の手塚正次という輸入候補が出現した。沖縄との縁故に頼るか、縁故がなくても金力にモノを言わせるかして、県外から沖縄の選挙に立候補したのが輸入候補、あるいは金権候補ともいわれた。

輸入候補第一号の手塚は山梨県の県会議長、代議士、電気会社の社長などの経歴をもっていたにせよ、沖縄と縁もゆかりもなく、生まれて一度も来沖したことのない赤の他人にすぎなかった。それでいて、金力で有力県議らを抱き込んで、たちまち当選してしまった。山梨県出身では、もう一人の田辺勝邪が次の選挙に出て落選している。手塚は若尾一族や小林一三ら甲州財閥の流れをくみ、手塚、田辺ともども「甲州財閥が金を持ってくる」とうわさしきりだった。

(略)次の昭和3年の衆院選挙(最初の普通選挙)では、定員5人のうち輸入候補の亀割安蔵、竹下文隆の2人が当選した。亀割は長野県出身の鉄道工事請負業者、政友会有力者の小川平吉の子分で、「工事入札などに有利になる」ていどの単純な動機で代議士を志したという。沖縄には、たった一度、こっそり船でやって来て一晩、ひそかに真和志識名で2,30人の村民にあいさつしただけ。同じ船で早々に帰った。字もロクに書けないので、新聞記者にでもつかまってボロを出したら一大事と支持者が考えたことと、もう一つは、その方が、金権的選挙運動はやりやすかったらしい。のちに伊礼君ら沖縄選出議員が、沖縄振興建議案を政府へ出す前に亀割にも協力を求めたら「私は沖縄と関係ありません」と、あっさり断られた。「キミ、沖縄から当選させてもらったじゃないか」と責めると「取引は、ちゃんとすんでいる」と、すましたもの。「金で、すべて片付いたという意味だろう。恐れ入った話だが、請負業者の職業柄、そういうことが平気で言える豪傑であった」 – 伊礼君の話。

第10代の沖縄県知事高橋琢也(大正2年 – 3年)は政友会の原敬の内務大臣時代に起用され、60余の老齢にもかかわらず、県政に政党活動に精出し、沖縄中を歩いて「立て沖縄男子」という本も書いた。かなり評判がよかった。この知事の女婿になったことが、竹下文隆に幸いしたようだ。竹下は山口県出身で東京医学専門学校の理事をつとめて沖縄の子弟も多数就学させていた。昭和6年に竹下が屋富祖徳次郎医師らと共に沖縄日々新聞を発刊したいきさつについては、あとでふれる。

この竹下の運動員が大がかりな選挙違反をおこして選挙会計の竹下婦人までつかまりそうになった。ちょうど政友会内閣のころで、知事以下警察部長らも捨てておけず竹下をかばうため、竹下夫人を検挙寸前に小さな船に乗せて津堅島から奄美大島へ逃がした。肝心の警察が事件を放棄したのだから、それっきりだ。それもずっとあとでわかった。

上記の内容から、当時の沖縄において物凄い金権選挙(および選挙違反)が行われていたと察することができます。

宮崎政久さんは教育こそ本土で受けていますが、その後沖縄県に移住して弁護士および社会活動に従事しています。いわゆる“島ないちゃー”ですが、そんな彼が比例選出とはいえ連続して2期代議士を務めた事実は、沖縄の衆議院議員の歴史を振り返ってみると素直に凄いと思います。今回は残念な結果になりましたが、県内保守政治家の先輩である故西銘順治氏、故小渡三郎氏、そして仲村正治さんも落選の経験があり、そこから這い上がって沖縄県の為に尽力されました。ブログ主は宮崎さんも偉大なる先輩たちのように再起を果たし、そして地域のため、沖縄のために尽力してくれることを期待して止みません(終わり)。