7月2日付けの琉球新報(電子版)に「名将・我喜屋監督 産経での“発言”に波紋ひろがる 真意は?出馬は?」という見出しで5月22日付けの産経新聞に掲載された同氏のインタビューの真意を問いただす記事が掲載されました。
実は今回の案件において琉球新報社のアクションは極めて鈍いものがありました。ネット上では大反響にも関わらず、新報側では「読者からの投稿」の掲載という形で該当インタビューに対して控えめに不快感を表明していた形ですが、7月になって突如真意を問いただす記事を掲載したのは正直なところ意外な感がします。
「狼魔人日記」のブログ主である江崎孝さんは7月5日付けの記事において、「異論を許さぬ沖縄の言論空間。沖縄2紙『沖縄の民意は新聞が作る』と豪語!琉球新報が名将をバッシング!我喜屋優氏が次期知事候補として浮上!藪を突いて蛇を出す結果となるか。それも最強の大蛇を…」と記述していますが、ブログ主がインタビューを読んだ限りでは新報記者のインタビューに対して我喜屋さんが軽くあしらった印象が強いです。たとえば「沖縄の地元紙は見るに堪えないとの発言の真意は。そして、沖縄のメディアに求めたいことは?」との問いに対して、我喜屋氏は
「(辺野古や高江で機動隊と市民が)取っ組み合いするような記事を見た時に子どもたちがどう思うかということだ。その意味で違和感を覚える時はある。『ルールやマナーを守り、人格と人格の交渉が必要』と、新聞が指導してほしい。また、新聞が色を出すのはいいと思う。ただ、相手(機動隊員ら)の家族を不幸にしてはいけない」
とぐうの音もでないほどの正論を述べています。おそらく今回琉球新報社が敢えてインタビューに臨んだ理由は二つあって、一つはこの件に関する読者からの問い合わせが予想以上に多かったことと、もう一つは来年の県知事選挙に立候補する志があるのかを確認したかったからと思われます。
ブログ主は来年の沖縄県知事選挙に我喜屋優氏を擁立することは断固反対です。その理由は戦後沖縄の歴史に見出すことができます。アメリカ世の時代に教育者から政治家に転進して成功した例はブログ主が知る限り3件あります。一人目が屋良朝苗氏、二人目が長嶺秋夫氏、そして三人目が現沖縄県知事である翁長雄志氏の父である翁長助静氏です。
翁長助静氏に関して今回は言及を避けますが、たとえば屋良朝苗さんは50歳のときに沖縄教職員会の会長に就任して、米軍との厳しい折衝を経験しています。長嶺秋夫さんは39歳のときに小禄村の若手有志に担がれて村長選挙に立候補、そして当選して村の建て直しに奔走します。屋良さんも長嶺さんも壮年期に米軍相手に厳しい交渉を迫られたことが、後に政治家として大成する一因になっています。つまり両者とも壮年期に仲介あるいは交渉の経験を積んでいますが、我喜屋さんは御年67歳で政治の場における交渉は未経験です。しかも経験を積むには厳しい年齢であることは言うまでもありません。
教育者かつ人格者にして政治の世界で大成しなかった典型例が志喜屋孝信さんです。志喜屋さんが終戦直後の初代沖縄民政府知事に就任した理由は「人格者で彼の元なら纏まる」ですが、実際には米軍との折衝が不慣れで政治の世界では目だった実績を上げることができませんでした。我喜屋氏も志喜屋さんと同じ轍を踏むのではと危惧せざるを得ません。
我喜屋さんは「来年冬の知事選を控え、我喜屋氏の待望論も聞こえる。知事選に出馬する可能性は?」との琉球新報の記者の問いに対して、
「(私の仕事は)教育、スポーツを通して沖縄を幸せにすることだ。かつては同情された内地に対して反骨精神を持って、日本を超え、沖縄を見本にすることに100%のエネルギーを使わせてほしい。期待されるのは悪くないが、教育、スポーツを通しての我喜屋を県民のために使ってほしい。政治となると敵味方あり、また誹謗中傷もある」
と回答されています。ブログ主は沖縄県民が我喜屋さんの意志を尊重して、別の候補者を擁立することを強く望む次第であります。(終わり)
【関連リンクサイト】
琉球新報(電子版) 政治 名将・我喜屋監督 産経での“発言”に波紋広がる 真意は?出馬は?
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-525762.html
狼魔人日記
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/707625346444e60fafc6f1252b33b627