(続き)前回の記事で、アメリカ世から復帰後にかけて山口組の沖縄進出が失敗した理由はただ一つ “人材選びを誤った” と言及しました。今回はブログ主の手持ちの史料を利用して、この点について言及します。
沖縄ヤクザ関連
アメリカ世時代の沖縄と山口組
昭和47年(1972)5月14日付琉球新報12面に” 沖縄に任侠道を…” と題して復帰後の沖縄に山口組が本格的に進出する(であろう)記事が掲載されていました。
参考までに当時の沖縄には親山口組の組織として “東亜友愛事業組合” が存在していましたが、それとは別に山口組は2年前の昭和45年(1970)4月に “国琉会” として那覇進出を試みましたが、わずか一か月で撤退した過去があります。
住民に迷惑かけない – 上原秀吉組長と一問一答
本日ブログ主は首里城公園の新春イベントを見学しました。その様子は後日アップすることにして、ブログ主的に首里桃原と言えば “第四次沖縄抗争” や “上原勇吉自宅” のイメージが強いため、今回はそれに関連して昭和51年(1976)12月18日付琉球新報朝刊に掲載された上原秀吉(勇吉実弟)さんのインタビューを紹介します。
これが暴力団の宿命
今回は、最近さぼり気味だった “沖縄ヤクザ関連” の記事をアップします。昭和50(1975)年10月16日早朝、識名霊園前で又吉世喜理事長(当時)が射殺されて46年が経過したわけですが、今回はそれに関連して琉球新報に掲載されていた解説記事全文をアップします。
戦前の沖縄社会になぜ反社会的勢力が存在しなかったの考察 – 結社の概念なき社会その2
(続き)前の記事で廃藩置県以前の琉球社会には(一部の例外を除いて)結社の概念がなかったことを説明しましたが、今回は補足として女性たちの世界についても言及します。女性たちの世界の代表的なものに辻町、仲島、渡地(わたんじ)などの花街と那覇東町を代表とする市場があります。
戦前の沖縄社会になぜ反社会的勢力が存在しなかったの考察 – 結社の概念なき社会その1
(続き)琉球・沖縄の歴史を俯瞰すると、意外に思われるかもしれませんが、廃藩置県以前のりうきう社会には “結社の概念” を(もちろんゼロではありませんが)見つけることが非常に難しいです。その前に結社について定義すると “目的を達成するために結成された機能集団” のことであり、成立のために条件として
戦前の沖縄社会になぜ反社会的勢力が存在しなかったの考察 – プロローグ
今回から数回にわたって古琉球から戦前の琉球・沖縄社会にヤクザが存在しなかったかをまじめに考察します。ご存じのとおり、琉球・沖縄の歴史において反社会的勢力が階級を作り上げたのは昭和20年(1945)以降で、それ以前の社会ではヤクザが存在する余地はありませんでした。沖縄社会にヤクザが存在しなかったことに関して、以前当ブログでも取り上げましたが、宮城嗣吉(みやぎ・しきち)さんの証言を再掲載しますのでご参照ください。
骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■4■ / 和解
果たして内部抗争はあるのか、そして会長の跡目はだれが継ぐのか – 。旭琉会の多和田真山会長射殺事件は、犯人の組員2人が早期逮捕されたことで、今後は旭琉会の内部がどうなるかに焦点が絞られてきた。
今のところ、主流派と反主流派が和解し、犯人を出した一家の総長が謹慎することで、組織の内部は一応の結着を見た格好。下部の組員にも事件発生直後から、「しばらくは動くな」との指令が出されていたといい、表面的には抗争の動きは見られない。
骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■3■ / 火ダネ
“一家総長制度” や “島割り” など組織固めの新しい構想を次々と打ち出し、ようやく安定期を迎えようとしていた二代目旭琉会にとって、多和田真山会長射殺事件は “晴天のへきれき” として大きな衝撃を与えたにちがいない。事実、多和田会長自身もわずかの取り巻きを連れて沖縄市中の町を飲み歩いていたほどで、ほとんど無防備に近い状態。撃たれたその瞬間までよもや自分をつけ狙っている者がいたとは考えもしなかっただろう。しかし、ことしに入ってすでにトラブルの兆しはあったと断言する声もある。
骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■2■ / 亀裂
「会長はワンマンで、あまりの横暴さにことしの夏ごろから組織内でも不満が沸き上がっていた」。今回の多和田会長射殺事件の主犯・糸数真は逮捕後の取り調べに対し、こう動機を自供している。単純にそれだけとは思えないが、県警の暴力団担当の捜査員らの話を総合しても、多和田会長の独裁ぶりは最近とみに強まって来ていたという。
骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■1■ / 結束
県内最大の組織暴力団・二代目旭琉会の多和田真山会長(49)が射殺された事件は、暴力団の組織壊滅に力を入れて来た県警にとっても大きな衝撃だった。組織内では “天皇” とも呼ばれるほどの絶対的な権力を握り、一家総長制を取り入れるなど内部体制も磐石に固まったと見られていただけに、言わば県警も虚をつかれた格好だ。
多和田真山 – まとめページ
以前にも言及しましたが、沖縄ヤクザ史において最も興味深い人物は誰かと問われるならば、ブログ主は多和田真山(1933~1982)と即答します。それゆえに不定期ではありますが、ブログ主が蒐集した新聞史料を当運営ブログでアップしたところ、ネット上では “多和田ウォッチャー” として認知された感があることに気が付きました。
”狙われたドン”(5)/ 住民パワー
二代目旭琉会会長が短銃2発で射殺され、警察は十時間後に犯人2人を逮捕。そして3日後の総長会では「これ以上の内部抗争はしない」という和解が成立した – 。事の重大さに比べて表面上は不気味なほど穏やかだ。最初からこの事件を画策した “筋書き” があったのか。
戦前の沖縄社会にヤクザはいなかった件についての考察
“戦前の沖縄にはやくざがいなかった”
ブログ主が初めてこの事実に気が付いたのは大城立裕著『沖縄歴史散歩』を読んだときですが、その後いろいろな史料に目を通すうちに、意外なところから上記の事実を裏付ける記述を見つけました。
”狙われたドン”(4)/ 暴力団追放作戦
旭琉会の多和田真山二代目会長が射殺された9日、沖縄市の中の町社交業組合(伊佐彰一組合長)はその日のうちに緊急理事会を開いた。組合に加盟している店だけで380軒を数える中部地区最大の飲食店街。午前1時過ぎという時間はまだ人通りが多い。その真っただ中で発生したテレビドラマもどきの殺人劇。しかも舞台となったスナック「COOL」(クール)と組合事務所は目と鼻の先。組合員が街のイメージダウンを恐れたのも無理もない。伊佐組合長はじめ各理事は、客が寄り付かなくなるのを心配、対策を練ったが、救いは「一般住民にけががなかったことと犯人がすぐ捕まったこと」という。