(続き)復帰後にも心配された本土ヤクザの進出もなくて、結成から3年半ほどが無事に過ぎて、ホッとしていたときに上原勇吉の事件が起きたんです。
じつを言うと、勇吉と私は親しい間柄だったんです。もう1人、山原派の理事の座安久市と3人でよく飲みに行って、いろんな話をしたもんです。勇吉と座安の2人がターリーから1000ドル、私がスターさんから1000ドルもらって、3人で遊技場を経営することにもなってもいたんです。
(続き)復帰後にも心配された本土ヤクザの進出もなくて、結成から3年半ほどが無事に過ぎて、ホッとしていたときに上原勇吉の事件が起きたんです。
じつを言うと、勇吉と私は親しい間柄だったんです。もう1人、山原派の理事の座安久市と3人でよく飲みに行って、いろんな話をしたもんです。勇吉と座安の2人がターリーから1000ドル、私がスターさんから1000ドルもらって、3人で遊技場を経営することにもなってもいたんです。
(続き)金城「スターさんは沖縄のヤクザの世界を守った人です。そして、そのために命を落としたんですよ。あの人を亡くしたことは大きな痛手でしたが、戦中から戦後にかけての沖縄はそういう血をたくさん流さなければならなかったんです。そういう犠牲なくして、沖縄人は生きてはいけなかったんです。命がけで守らなければ沖縄社会はヤマトンチュー(本土人)のものになってしまった。スターさんの死はそういう犠牲の一つなんです。
(続き)那覇派はコザ派よりはかなり遅れて、昭和35年ごろにようやくまとまりを見せたのであるが、首領としてそれを率いたのが、通称「スター」こと又吉世喜だった。
那覇派の母体は空手道場の門下生のグループで、「戦果アギャー」が主体のコザ派とは性格を異にする。どちらかといえば沖縄の武芸者集団といった色合いがあり、コザ派よりも保守的で、本土ヤクザとの交流もまったくなかった。
(続き)那覇派幹部の田場盛孝が、組員約70人を率いて那覇派を離れ、宜野湾市普天間に普天間派を結成したのは、昭和39年4月のことだった。
田場は元は米軍のトラックの運転手をしていて、「戦果アギャー」のリーダーだった。だから、立場としてはコザ派に近かったのだが、彼は喜舎場朝信とも新城喜史とも折り合いがわるかったので、コザ派には加わらなかった。
(続き)金城「喜史さんは、情に厚くて面倒見がいい人でした。とにかく気前がよくて、物だろうがカネだろうが惜しみなく人にあげてしまうんです。そのうえ気さくで遊び好きで、社交性が抜群でしたから、若い連中に慕われて人気がありました。
その一方で、非常に感情の激しい人でもあったんです。空手はさほど強い方ではなかったですが、激しやすくて、何かあれば真っ先に飛び出していく行動的なタイプです。ターリーにもかわいがられて跡を継いだわけですが、喜史さんの性格の激しさが、沖縄ヤクザの歴史にかなり影響したと思います」
中国が「三国志」なら、コザ派(山原派)那覇派、普天間派、泡瀬派の四派が覇を競ってせめぎ合った沖縄ヤクザは、さながら「四国志」の世界だった。
そこで主役を張ったのはどういう男だちだったのか?
ここでは、その中の六人に焦点をしぼり、三代目旭琉会・金星一家金城正雄総長のコメントをもとに、その人物像を描き出してみた。
三代目旭琉会金星一家・金城正雄総長は、ごく初期のころから那覇派の首領・又吉世喜の舎弟分として那覇派の実務面を取り仕切ってきた。その実績が買われ、彼は沖縄連合旭琉会の結成時から二代目旭琉会の時代まで、事務総長の要職を務めた。三代目になって役職は後進に譲ったが、三代目旭琉会にあってはいわば長老格にあたる人物である。
金城総長は若い時代、又吉世喜と起居を共にしていたこともあって、連合以前の那覇派はもとより、沖縄ヤクザ全般についての生き字引的存在である。