同じ水も牛が飲めば乳となり蛇が飲めば毒となる。旅行もまたその場所により人に依りて益ともなり害ともなるあらん。あヽ余は今度の旅行ほど利益ありし旅行は過去を尋ねても、はたまた将来に於てもそを求むるに難きことヽ思ふ。
人物
論説 – 野球優勝試合
大正6(1917)年9月10日付琉球新報2面上段に”野球優勝試合”と題した論説が掲載されていました。無署名記事ですが、内容を吟味するに太田朝敷先生の論説の可能性が高いです。
論説の流れは大雑把に見ると、大きい視点(沖縄県における急務の問題についての言及)→対応策の提示→対応策を講じることによって生ずる弊害についての言及になっていて、これは太田先生がよく使う手法です。それ故ブログ主は太田先生の論説で間違いないと判断しています。論説全文(原文)と旧漢字訂正分を掲載しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。
芋の葉露(田舎生活)- まとめページ
これまで6回にわたって掲載した太田朝敷先生の論説「芋の葉露(田舎生活)」のまとめページです。当ブログでは琉球新報に掲載された原文および写しと太田朝敷選集(中巻)に掲載された旧漢字訂正分(の一部をブログ主が校正)を掲載しました。
参考までに太田朝敷選集の編者である伊佐眞一先生の書誌改題を紹介します。
見えない危機
先月26日付の沖縄タイムス内に、ブログ主の目に留まった記事がありましたので紹介します。ちなみに同日の記事は東京都の週末自粛要請や、春季高校野球の開幕、そしてタレントの志村けんさんの新型コロナウィルス感染などが掲載されてますが、その中で社会面(26ページ)に記載されていたある詐欺事件に関して気になる記述がありました。
芋の葉露(田舎生活)- その7
(七)文明の風潮は多少村落生活の中にも染みこみ宴会抔も自ら新旧三様の風あり。新風の宴会は天長節とか新年とか云ふ折に開かるゝものにてこれは云はゞ公会の性質を帯びたるものなれば旧態の宴会と云(いわ)〔く〕の趣を異にするのは当然の事なり。さてこの宴会は村事務所に会し豚豆腐抔の煮しめを肴とし泡盛を飲んで楽しむまでにて三味線を弾じ鼓をたゝくが如きことはなし。
芋の葉露(田舎生活)- その6
(六)都鄙を通して百俵の土地を有する者は豪農とす。一俵(約60キロの米穀と仮定)の坪数は地味の肥瘠位地の便不便によりて甚しき差あり。那覇首里の近在にして六十坪一俵の所あり、或は七八十坪一俵の所あり、偏在の瘠地となれば百乃至二百坪一俵の所もあれども先づ平均したる所で八十坪位(約264平方㍍)の所なるべし。
芋の葉露(田舎生活)- その4
(四) 膳盌皿の類は田舎屋にても上等の部に属する所は一通りの設備あり。されどこれ十中一二を数ふる位ひなり。茶飲茶抔は支那製の随分高価(と云ふも十個一円位ひに過ぎず)のものを所持する向もあれども茶盆は正七月市の出来合ひものにて誠に釣合はぬもの多し。
芋の葉露(田舎生活)- その3
(三)穴屋の構造は大略前回に述べたるが如し。田舎にて□家屋と云へば先づ穴屋が普通にて瓦家及びヌキ屋は余程贅沢なる家屋なり。而して瓦屋は旧藩の時代に於ては禁制なりし故田舎にては番所(今の役場)の外に瓦の屋根を見ざりしが、近来は財産家争ふて瓦屋を造るに至り島尻中頭には瓦屋は恐らくヌキ屋より多きに至りたるならん。斯く瓦屋が流行するも間取り又は構造に数寄を凝したるものとては一軒もなくこれ又版に押したるが如くヌキ屋と同様なる構へなり。多くはヌキ屋の組建てに瓦を乗せたるに過ぎざるなり。
芋の葉露(田舎生活)- その2
(弐)那覇より半程も踏み出せば忽ち村落的の趣味を感ずるなり。本県の村落は他府県とは趣きを異にし、所謂地人(純粋の百姓)は多きは七八百戸、少なきも四五十戸一団となり殆んど町の体裁を形成せり。ただ居住人と称する那覇首里等より寄宿したる一種の農民は耕作の便宜を逐(お)ふてその住居を定むる故処々に散在せり。この有様は那覇近在より遠く国頭に至るまで少しも異なる所なし。
芋の葉露(田舎生活)- その1
(壱)三百年来人の生血を見たることなき人民に曾て戦乱抔(など)の恐るべきを知らず恐るべきものはただ飢饉のみ。或(ある)老農畑の側なる小松原に腰をかけ煙草を吹かしつつ余に語りて曰く、手前共に米も二十俵位は作り砂糖も十四五挺は作り、その他麦も豆も少しづつ作り候へども、一番大切のものは其処一面に蔓これる芋にて候。
久高島印象記 – まとめページ
今回は読者の便宜を図る上で、『沖繩敎育』(大正13年6月、9月、12月)の3号にわたって掲載された又吉康和著『久高島印象記』のまとめページを作成しました。同年6月8日に実際に久高島を訪れた際の訪問記ですが、当時の島の様子を伺える第一級の史料と言えます。
ちなみにこの印象記を読んだブログ主の感想は、伝統主義(現在の社会的な慣習は “これまで続いてきた” という理由だけで正しいと考える行動様式のこと)の束縛の強さです。そして興味深いのがこの一節で
久高島印象記 (5)- 又吉康和
一 久高島に印象の一番深いものは地割制度であつた。明治三十二年法律第五十九號を以て沖繩縣土地整理法が施行された、で同第二條に依り縣下各村の持地人(百姓)は最終の地割替に依り各自其の割當てられた土地の所有權を完全に獲得したわけである。然るに獨り我が久高島と渡名喜島の百姓等は地割地を從來の通り持地人の共有としたのである。其の爲め各町村では何處でも私有財產として土地を所有して居るにも拘わらず久高島では土地が共有である。
久高島印象記 (4)- 又吉康和
三 結婚 日本全國には結婚に關する奇習が多からうが、我が久高島も亦その一つであらう。先づ婚約は男女幼い時兩方の親の勝手極めて置く、子供達の心中は始めから眼中にない。これから旣に現代離れして居る。
久高島印象記 (3)- 又吉康和
一 われ等は神祕の探し出す心持で此の憧憬の島に上陸した。此の島の住民は誰でもアマミキヨが島を造、白樽が開祖だと信じて居る。交通不便の爲め古い風俗習慣が古の儘遺されてゐる。彼れ等は太陽は東の海より出て、西の丘の彼方に沒するものだと信じ、雨は龍が雲を集めて降らすものと信じて居る。草も木も神に依つて生じ、人間も犬も猫も神の使であると信じて居る。そこにはコロンブスの亞米利加發見もなく、ニユウトンの引力もなく、ダーウヰン進化論もない。地上の幸、不幸は總て神の喜怒哀樂に依つて支配されて居るものと信じて居る。
久高島印象記 (2)- 又吉康和
三 白樽一男二女を擧げた。長女於戸兼樽(オトカネタル)は祝女の職に任ぜられ山嶽の祝祭を司つた。長男眞仁牛(マニウシ?)は父の家統を繼ぎ、其の子孫繁昌した。(外間根人は其の後裔である)二女思樽(ウミタル)は巫女になつたが後玉城間切の巫女に擧げられて、城内に居た。其の天姿の艶麗と貞操律儀堅く、物腰の端正なること常人の及ぶ所でなかつたので急ち評判となり終には國王に召され宮中に入り其の寵愛を受けた。