□軍のブラックリストに載る 私たちがコンディショングリーンの時に、日比谷野外公会堂でコンサートをやったのは、復帰後じゃないですかね。
私はヤマト(本土)で考えられないようなことをやっているから、いろんなことやってきて覚えてないですよ。私は那覇市民会館や内地の日比谷(野外公会堂)での演奏はだめなんです。使用許可がおりないですよ。
□軍のブラックリストに載る 私たちがコンディショングリーンの時に、日比谷野外公会堂でコンサートをやったのは、復帰後じゃないですかね。
私はヤマト(本土)で考えられないようなことをやっているから、いろんなことやってきて覚えてないですよ。私は那覇市民会館や内地の日比谷(野外公会堂)での演奏はだめなんです。使用許可がおりないですよ。
□コザ事件のとき コザ事件(一九七〇年一二月二〇日)が発生したときに、私は胡屋十字路の陸橋近くにあったアスターハウス(今のケンタッキーフライドチキン)で明け方までライブをやっていたので、気づかなかったんですよ。
□冗談だけど、いたずらが好き 私は今独身ですけど、いたずらが好きですね。たとえばこういうこともやりました。
「今日バンドの練習がライブハウスであるから」
といったら、「ぜひ練習しているところを見たい」とかいう若い女性四、五人で来るとしますでしょ。これがまた、ただはやらんで何かいたずらを考えるわけです。
今回は “番外編” として、「ロックとコザ(1994)」の “番外編” として、川満勝弘さんの証言に対する検証記事をアップします。実は、川満さんに限らずオキナワン・ロックの面々の証言には時系列が曖昧な部分があって、整合性が取れないケースが散見されます。
□ヘビのステージング 辺野古のステージでは、ハブでやっていたし、コザ方面ではアカマターとかニシキヘビでやっていましたよ。
人間には怖いという感覚がありますが、怖いというのや苦手なものというのには、けっこう私はむかっていくタイプなんですよ、私も怖いから。
□エスカレートするステージ 私たちが客席にこの🐔を投げつけたりすることは、まだ簡単なことです。私たちは、ステージの上でセックスするんですよ。考えられませんよ、本当に。これは一度だけ、最初で最後ですけど、セックスというよりなんというか、アメリカ人の女性とすっぽんぽんになってステージの上で抱き合って、セックスまではしなくて、愛の戯れをやったことはあるわけです。その間演奏は泊めないで、ずっとそれにマッチしたアメリカの音楽をやるんです。
(続き)そのころ、私たちは音楽ではもう勝っているので、これだけ米兵がいっぱい集まってきてもあんまり私たちに物を投げなくなっていましたが、そのだめ押しをしようというわけです。
でも、そのかわり自分たち同士ではテーブルをひっくり返したりして騒ぐので、そこで経営者は「静まれ」といってカウンターの後ろに置いてある空気銃を「バーン」と撃ったりするような、それぐらいの店でしたよ。
□チビの加入と脱退 また(アメリカでレコーディングするとき)、紫のチビ(宮永英一さんのこと)が「カッちゃんアメリカ行くんだってな、僕も入れてくれ」といって来たんです。「アメリカに行って試してみたいよ。紫でも行けなかったしさ、紫解散してしまうし、コンディション二回目だろ、お願いカッちゃん、俺何でもやるから連れてってくれ」とチビがいうので、「おまえ本当にじゃエツーと仲良くしろよ」といったのに、
學科は今と大した差はないが敎授方法や形式が今とは異つてゐまして餘程滑稽なのもありました。圖畫の時間などは今ぢや鉛筆クレオン水彩畫などもやつておりますが私の時代は專ら日本畫でして墨繪でした。疊の上に紙を敷きましてそれへ筆を運んでゐたものですよ。墨繪だと言ひますと今は日本全國どんな學校を搜しても年が年中筆で繪を畫かせてゐる學校はまあ無いのでせうね。音樂の時間もですね、今ぢや樂譜の符號でやつてゐますが私たちは123でしたが今でもこの123式はやつてゐますけどドレミでなくわたしたちはヒフミと發音してゐました。習つた唱歌も國歌とか「金剛石を磨かずば」等でした。
安村つる子女史は今は亡き夫良公氏との間に四女を擧げ目下首里市金城町に居住され子妹の敎育に專念されつゝある首里第一小學校に奉職中なりしも今學期を機會に敎育界を勇退されることなつた。本縣最初の女敎員で女子敎育界の元老である。今仝女史を訪ふて當時の敎育狀况の輪廓や挿話を描いてみる。
ここ数日、ブログ主はこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、ふとしたことから琉球女性が和装した “本当の理由” について気が付きましたので、当ブログにて纏めてみました。
当ブログの読者であればご存じかもしれませんが、我が沖縄の歴史のおいて初めて和装した人物は “偉大なる” 安村つる子女史(1881~1943)です。外間米子監修『時代を彩った女たち』によると、彼女が明治32年(1899)に和装した理由を「当時「源平時代の古代服」といわれた琉装を、日琉同祖論の立場から和装に改めるべく(下略)」と記述してますが、実はこの説明は正確さを欠いているのです。
□Where’s Bank? (銀行はどこ) そうして、ロサンゼルスのオフィス街でようやく銀行を探し当てて入ったのはいいのですが、パジャマで黄色いサンダルを履いて米を買うつもりで出ていった奴らが、しかもカラジ(髪)もこんなしているヤナ・カーギー(長髪で変な風貌)ですから、警備員が入れてくれないわけです。
エディに「エツー、お前が銀行に行ってこい。ワッター(俺たち)二人で行ったらこいつ車持って逃げるよ。俺、ここで座っておくから、おまえ早く行ってドルに替えてこい」といわれてエツーが銀行に行ったんです。
□アメリカでレコーディング 一九七〇(昭和四五)年にアメリカでレコーディングしようということで、ワーナーブラザーズの映画会社にレコーディング部があって、そこのスタジオでやりました。
これは、「デージだったよ(すごかったよ)」というディズニーランドでバカ受けした噂が日本にまできているんです。それで、キャニオンレコード会社から「イッター(君たち)はアメリカにむいているから、トォー・アンシェー・イッター(さあそれなら君たちの)レコーディングはアメリカでやれ」といわれ、二枚目のLPレコードはアメリカのワーナーブラザーズのスタジオで無事レコーディングを済ませたんです。
□ディズニーランドで演奏 私たちが最初にアメリカに行って公演したのは、何年のことだったか覚えていないのですが、新聞に載っていたと思いますよ。アメリカのディズニーランドにある大きな野外劇場で、ジャパンフェスティバルというものがあったんです。テレビはNHKしか入れないということでした。
□クビと再加入 喜屋武幸雄の「マリーWITHメデューサ」のバンドと「コンディショングリーン」の二つでやっていた「サウンドシティー」が一年以内に閉鎖したあと、私が金武のむこうでやっていたときに、ミュージシャンとミュージシャンじゃない私との違いが出てきました。