□マヤーの肉 昔、私たちが借りているライブハウスの家主の奥さんが「カッちゃん、馬肉とか、牛肉、豚肉たくさんあるけど、うちのお父さんがね、内臓(腎臓の病気)には🐈の肉が効くっていうから。那覇の市場に行っても🐈の肉は売ってないのよ」といいだしたんです。それで私は「何、🐈食べるわけ」と聞くと、奥さんに「あのね、どこにも売っていないから、あんたなんか鶏も蛇も食べるさね、だからあんたなんかだったら🐈も料理して持ってくるんじゃない」といって頼まれてしまったわけです。
人物
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その11
(続き)でも私は「アッハー・ワカタン、イッター・シーカタ・ワカタン。ワッター・ガ・オーン・ディ・イレー・カラ、イッターヤ・ウヌ・バンドー・ウリサーニ・シムン・ドー・ンディ(わかった、あんたたちのやり方はわかった。俺たちがいいよっていったら、あんたたちはこのバンドはこれでいいってよ、というんだな)。ああ、イッター・ワカタン、ナー・ダメ・ヤッサー・ウレー(あんたたちのはわかった、もうこれもだめだね)」といって、といって、彼らがバンドから了解を得たからといって給料の上にプラス三〇ドル・ンディ・イーネー(といえば)、バンドもOK出しているからオーナーに対して強くいえるので、断ったんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その10
(続き)今度はまた、中堅幹部が「エー・イッター仕事ヤ・何時にウワイ・ガ、ワン・マッチョー・チュク・トゥ・ヤー、ウマン・カイ、玄関ンジ。ヒンガ・サン・ドー、チュウ・ヤ(おい、お前たち仕事は何時に終わるのか。俺は玄関でまっているからな、今日は逃がさないからな)」と店まで来て脅かすんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その9
□ヤクザとの対立 私はバンド活動を、学生のころのように調子にのってやっていましたから、あのころの暴力団から縄張り代を請求されたこともありました。だから、私は中部病院にも運ばれましたよ。私は高校のときにも上級生から目をつけられましたけども、社会に出てもそんなことがあるんだなと思いました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その8
□死体洗い その時のバンドのメンバーは、沖縄で一番キャラクターが強い奴ばかり集めて組んでいたわけですが、性格が合わずに一人抜け、二人抜けして、入れ替わりが激しかったんです。そのメンバーから抜けた奴の一人でヒコー(嘉手刈武彦さん)がいましたが、彼は陸軍病院の死体の浮かぶプールでベトナムから送られた顔や内臓のない死体を洗っていたんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その7
□ベトナム戦争時代のバンド契約 ベトナム戦争時代〔昭和50(1975)年4月まで〕のバンド契約は、一九六六年か六七(昭和四一か四二)年ぐらいで私たちのバンドは月に二〇〇〇ドルでした。そのころ、だいたい良いバンドで二〇〇〇ドルから三〇〇〇ドル、普通のバンドで一二〇〇から一五〇〇ドルぐらいでした。この一五〇〇ドルを四人で分けたとしても、そのころの銀行員の給料が月に一〇〇ドル近くになっているから、四倍ぐらい貰っていることになります。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その6
□夏休みのバンド活動 PTAと先生方と生徒が一緒になってのものでしたが、コザ小学校で謝恩会というのがあって、そのとき私たち、そこで演奏をやってしまったわけです。
すると、みんな口を開けて見ていて、もう先生方も生徒もヌーガ・キーガ・ワカラン(何が何やらわからない)という感じでしたが、そのときの反応はというと、音はエレキギターですから、ベース、ドラム、ギターでうるさいんだけど、私たちは清潔にはしていたんで、面白くもないし、そうかといって無視はできないしという感じでした。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その5
□勉とのつき合い (外間)勉とは家が近いので「こういう音楽もあるよ」と、レコードのやりとりをする仲でした。
私たちの高校時代に、瑞慶覧基地(北中城村)や嘉手納基地とかでゴーゴーダンスコンテストがありました。今でいえばパレットくもじ(デパート)なんかで高校生が踊ったり、ディスコでひっくり返ったりして踊っているものと同じです。これを高校三年のときに、私と外間勉の二人でずっとあちこち荒らしまわっていたんです。勉はおしゃれな踊りが上手かったけれど、私の場合はどちらかというとクセのある踊り方でした。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その4
□高校三年で社交ダンスを教える ようするに学校の伝統というか、後輩は先輩に対してあいさつするとか、上級生になるまでは生意気なことをしたらだめだとかいうのがあるんですけど、私は先輩も後輩も平等、男性も女性もみんな平等と思っていますし、一年のときからこうだから目に入りますので「なんだこいつは新入生のくせに」ということで呼ばれて、それで四人ぐらいに三度、制裁を加えられたんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その3
□高校生時代 私は、高校はコザ高校です。
高校では、「体操部に来い」とか「卓球部に来い」とか、また、中学の三年のときに校内マラソンで一番になってしまったから「トォー・アン・シェー(よしそれなら)陸上部に来い」とか、そういったヌー・ヤン・キー・ヤン(なんだかんだ)といって誘われましたが、体操部と陸上部にはあまり女性がいなかったので、それで、そのときかわいい子がいた卓球部に入ったんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その2
□中学校時代 私は、中学はコザ中学校です。
当時は、ゴヤ商店街(今の一番街)がありますよね、そこのおやじはほとんどみんな知っていますから、洋服とかシャツとかの品物を置いてある台が店の前にあって、そこでおじいちゃんなんかが囲碁とか将棋をやっているんですよ。
それで、中学校の帰りに「何やってるのかな」とのぞくと囲碁は白と黒がこうなって、将棋もこれがこうなって、ああこうなってこうなってと、ずっと二時間ぐらい見てて、それでだいたいわかってきて「アハァ、ウレェ、ウング・トゥー・シルス・サヤー(これはこうやってするんだな)」と覚えたわけです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その1
□生い立ち 私は、生まれたところがわからないんですよ。一九四四(昭和十九)年八月十八日生まれで、宮古のどこか、誰も教えてくれないんです。それと、私は一人っ子ですが、遠い親戚が息をひきとる前に、双子の兄弟がいるといっていたんですが、ああいうときに嘘はいいませんよね。だから、私と似ているのがどこかにいるんじゃないですかね。
たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その1
ここ数回、当運営ブログでは珍しく “古りうきう” の真面目な仮説記事を掲載し続けています。それはつまり、「古琉球の深淵 – おぎやかの謎」の続編を掲載すべく、彼女に関して集めた史料を改めてチェックしたところ、これまで気が付かなかった “盲点” に気づいたためですが、今回もその流れで「たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)」について言及します。
浦添朝満の謎 – その(2)
(続く)今回は、浦添朝満(1494~1540)の “失脚” について、ブログ主なりに言及しますが、実はこの案件で困ったことがあります。それは、彼が尚眞王の長男でありながら最終的に廃嫡の憂き目にあったため、後世の人たちから悲劇の主人公扱いされている点です。
浦添朝満の謎 – その(1)
今年に入って、「二代目聞得大君の謎」と題した記事を3回配信しましたが、実はブログ主の予想の斜め上を行く反響がありました。その際に、二代目聞得大君こと峯間(みねま)の史料をできる限りチェックしたところ、向氏小禄家(一世朝満)の一族に関する思いがけない事実に気が付きました。