(続き)そのころ、私たちは音楽ではもう勝っているので、これだけ米兵がいっぱい集まってきてもあんまり私たちに物を投げなくなっていましたが、そのだめ押しをしようというわけです。
でも、そのかわり自分たち同士ではテーブルをひっくり返したりして騒ぐので、そこで経営者は「静まれ」といってカウンターの後ろに置いてある空気銃を「バーン」と撃ったりするような、それぐらいの店でしたよ。
(続き)そのころ、私たちは音楽ではもう勝っているので、これだけ米兵がいっぱい集まってきてもあんまり私たちに物を投げなくなっていましたが、そのだめ押しをしようというわけです。
でも、そのかわり自分たち同士ではテーブルをひっくり返したりして騒ぐので、そこで経営者は「静まれ」といってカウンターの後ろに置いてある空気銃を「バーン」と撃ったりするような、それぐらいの店でしたよ。
□チビの加入と脱退 また(アメリカでレコーディングするとき)、紫のチビ(宮永英一さんのこと)が「カッちゃんアメリカ行くんだってな、僕も入れてくれ」といって来たんです。「アメリカに行って試してみたいよ。紫でも行けなかったしさ、紫解散してしまうし、コンディション二回目だろ、お願いカッちゃん、俺何でもやるから連れてってくれ」とチビがいうので、「おまえ本当にじゃエツーと仲良くしろよ」といったのに、
學科は今と大した差はないが敎授方法や形式が今とは異つてゐまして餘程滑稽なのもありました。圖畫の時間などは今ぢや鉛筆クレオン水彩畫などもやつておりますが私の時代は專ら日本畫でして墨繪でした。疊の上に紙を敷きましてそれへ筆を運んでゐたものですよ。墨繪だと言ひますと今は日本全國どんな學校を搜しても年が年中筆で繪を畫かせてゐる學校はまあ無いのでせうね。音樂の時間もですね、今ぢや樂譜の符號でやつてゐますが私たちは123でしたが今でもこの123式はやつてゐますけどドレミでなくわたしたちはヒフミと發音してゐました。習つた唱歌も國歌とか「金剛石を磨かずば」等でした。
安村つる子女史は今は亡き夫良公氏との間に四女を擧げ目下首里市金城町に居住され子妹の敎育に專念されつゝある首里第一小學校に奉職中なりしも今學期を機會に敎育界を勇退されることなつた。本縣最初の女敎員で女子敎育界の元老である。今仝女史を訪ふて當時の敎育狀况の輪廓や挿話を描いてみる。
ここ数日、ブログ主はこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、ふとしたことから琉球女性が和装した “本当の理由” について気が付きましたので、当ブログにて纏めてみました。
当ブログの読者であればご存じかもしれませんが、我が沖縄の歴史のおいて初めて和装した人物は “偉大なる” 安村つる子女史(1881~1943)です。外間米子監修『時代を彩った女たち』によると、彼女が明治32年(1899)に和装した理由を「当時「源平時代の古代服」といわれた琉装を、日琉同祖論の立場から和装に改めるべく(下略)」と記述してますが、実はこの説明は正確さを欠いているのです。
□Where’s Bank? (銀行はどこ) そうして、ロサンゼルスのオフィス街でようやく銀行を探し当てて入ったのはいいのですが、パジャマで黄色いサンダルを履いて米を買うつもりで出ていった奴らが、しかもカラジ(髪)もこんなしているヤナ・カーギー(長髪で変な風貌)ですから、警備員が入れてくれないわけです。
エディに「エツー、お前が銀行に行ってこい。ワッター(俺たち)二人で行ったらこいつ車持って逃げるよ。俺、ここで座っておくから、おまえ早く行ってドルに替えてこい」といわれてエツーが銀行に行ったんです。
□アメリカでレコーディング 一九七〇(昭和四五)年にアメリカでレコーディングしようということで、ワーナーブラザーズの映画会社にレコーディング部があって、そこのスタジオでやりました。
これは、「デージだったよ(すごかったよ)」というディズニーランドでバカ受けした噂が日本にまできているんです。それで、キャニオンレコード会社から「イッター(君たち)はアメリカにむいているから、トォー・アンシェー・イッター(さあそれなら君たちの)レコーディングはアメリカでやれ」といわれ、二枚目のLPレコードはアメリカのワーナーブラザーズのスタジオで無事レコーディングを済ませたんです。
□ディズニーランドで演奏 私たちが最初にアメリカに行って公演したのは、何年のことだったか覚えていないのですが、新聞に載っていたと思いますよ。アメリカのディズニーランドにある大きな野外劇場で、ジャパンフェスティバルというものがあったんです。テレビはNHKしか入れないということでした。
□クビと再加入 喜屋武幸雄の「マリーWITHメデューサ」のバンドと「コンディショングリーン」の二つでやっていた「サウンドシティー」が一年以内に閉鎖したあと、私が金武のむこうでやっていたときに、ミュージシャンとミュージシャンじゃない私との違いが出てきました。
(続き)私は「エー・オーナー、ヤーヤ・テー(あんたはね)、今はさ・ワッター(俺たちの)バンドはベースの中も、野外で万座ビーチとかでイベントすると、アメリカー・ター・ワーラナイ・アチマイ・クトゥ・ヤー(アメリカーたちがいっぱい集まって来るしさー)、最近は日本人も三分の一コンサートに来るからよ、アメリカー・ター・ビカー・アラン・ドー(アメリカーたちだけじゃないよ)。どこでもいい、とにかく場所がボーリング場があったんじゃないか、映画館とか。一番ボーリング場ぐらいの広さがいいと思うよ」とオーナーにいったんです。
□基地内でバンド活動 さすがに金網の中までは縄張り料を取りにこないだろうと思って、私たちは同じメンバー(コンディショングリーン)で、基地の中をずっとまわってやっているわけです。
そしたら、ヤクザが「アッター・マーンカイ・ンジャ・ガ(あいつらはどこに行ったのか)」と探していたそうですが、「アッター解散サンドォー(あいつらは解散したよ)。派手によ、ステージの上で喧嘩して解散したみたいヤッサー(だよ)」ということを聞いて、「あのバンドォ・ナー・ネーン・バー(あのバンドはもうないのか)」といっていたそうです。
(続き)そして、演奏中にこれで大げんかしているわけよ。メンバーの一人が「ンマ、ウングゥ・トゥー・ンディ・イチャ・サニ、何回・ワンネー・イチャガ・ヤーン・カイ(ここは、こんなっていっただろ、俺は何回いったかお前に)」というと、あと一人が「アレー・ヤーガ・ウング・トゥー・シェー・カラ、ワンガ・チガトォール・フージー・ナイシェ、ワンネー・アットォー・シガ・ヤーガ・ウングゥ・トゥー・スクトゥ、ワンガ・マチガ・トォーン・フージー・ナインバー・ヨー、何回・ヤー・イレー・ワカイガ、ウマァ・ウング・トゥシ・ノーシ・ドー・ンディ・イチャ・セー(あれ、お前がこんなしたら俺が違っているみたいになるだろ、俺は当たっているけどお前がこんなするから俺が間違っているみたいになるわけよ、何回お前にいったらわかるの、ここはこんなして直せっていっただろ)」というふうにベースとギターでやり合ったんです。
□演奏中に大げんかを「演出」 そして、一〇年ぐらいたってからまた暴力団がやってきて「カッちゃん、クゥンドー・ワッター・トー・チガイン・ドー。クゥンドー・イッター・ヌガーラサン・ナー(今度は俺たちと違うぞ。今度はもうお前たちも逃げられないぜ)」というので、私が「ヌーガ、ヌーンチ(何が、何でよ)」と聞くと、「クゥンドー・ヤマトゥ・カラ・チョーン・ヨー・ヒャー(今度はヤマトから来てるんだぜ)と暴力団がいうんです。
□🐈殺せる人ってなかなかいないよ 家に帰って、大きな鍋にスブイ(冬瓜)と昆布と🐈の肉も切って全部入れて、🐈汁というのか🐈鍋というのかこれ作って、「ウリヒャー、トォー・シグ電話・サヒー(ほらできた、すぐ電話しょうな)」といってライブハウスの家主のところに連絡したら、「イッターン・カメー(あんたたちも食べなさい)」といわれて、私たちも「ヤッサー・ヤー(そうだね)、食べてみようかね、食べよう」といって一緒に参加することになったんです。それで「マー・サッサー・ヤー(おいしいねぇ)」といってみんな食べていました。
(続き)やっぱり、夜でも砂辺の海岸にはアベックがたくさんいましたよ。三時ごろに、私たちはその中を懐中電灯を持って歩きながら、「エー(なあ)🐈でもさ、魚を三枚におろすさ、あれと同じみたいなもんじゃないか」といったら、「皮がついてる。キー・ブター・シ、カー・チャー・スガ(毛だらけだのに、皮はどうするわけ)」といわれたんです。それで「皮な。皮は焼いたら」とかいうと、また「違うさ。あれは、鶏でもなんでも焼くのは、焼きブタとかじゃないか、毛を取るとかああいうの」というのもいるんです。