△阿摩和利はとにかく勝連の人民の意志によつて半島の主人になつたのである。然るに夏氏由來傳に
人物
阿麻和利考(三)
△阿摩和利は實にかういふ時勢に出たのである。そも〱彼は如何なる家に生れて如何にして育つた者であるか、彼れの父母兄弟に就いては記綠も口碑も之を語つてゐない。只だ彼れの靑年時代に就いて其敵者たる夏氏の由來傳が
阿麻和利考(二)
△阿摩和利が琉球史上如何なる地位を占むるかを知らうとするには、三山時代前後の社會状態を一瞥する必要がある。さてこれまで琉球史を書いた人は、皆玉城王の晩年(十四世紀の初)に國が分れて、中山、南山、北山の三王國となつたと言ふて、さながら一の王國が分裂したやうに思つてゐるが、余はこの分れると言ふことに就いて多少疑を抱いてゐる。
阿麻和利考(一)
かつれんはいきゃるかつれんが
しまのうちにとよませ
きむたかはいきやるきもたかが(勝連のおもろ双紙)
ももとふみあかりの謎 その5
今回は、ももとふみあかり(百踏揚)シリーズの最終話として、現代にひろく伝わる彼女のイメージがどこで誕生したかについて言及します。実はその答えは簡単で、18世紀初頭に写本された「(おもろさうし)安仁屋本」において彼女は勝連と結び付けられたのです。
ももとふみあかりの謎 その4
前回の記事において、「大里の下司の思い按司が節(1の29)」に登場したてるきみ(照君)とももとふみあかり(百踏揚)が同一人物である可能性について言及しました。参考までにてるきみ〔tirucimi:ティルチミ〕はてる(照)=太陽、きみ(君)=神(女性)なので、日神を意味します。
ももとふみあかりの謎 その3
今回は “王族のふみあかり” について言及しますが、彼女に関しては巻六「首里大君、せんきみ、君がなし、百踏揚、君の辻のおもろ御双紙」の中にももとふみあかり(百踏揚)の名を冠したオモロが9つあることがよく知られています。
ところがブログ主が衝撃を受けたのが巻一「首里王府の御さうし」に掲載されていたオモロで、それによって従来の彼女のイメージが一変する事態となりました。そして彼女の名が登場するオモロをチェックして出た結論が、
ももとふみあかりの謎 その2
前回の記事において、ももとふみあかり(百踏揚)女神官は古りうきう時代に複数存在していた可能性について言及しました。そして同女神官と島尻地方との関わりについて考察していきますが、その前に王族以外の “ももとふみあがり” について言及します。
尚泰久王の謎
今回は、ももとふみあかりに関する人物として尚泰久王(1415~1460)の “謎” について考察します。彼は定説によると尚巴志(1372~1439)の五男で、越来の按司から第6代のりうきう国王に即位した人物です。そしてももとふみあかりの実父としても知られていますが、彼にはこれまで解せなかった謎があります。それは神號が2つあることです。
ももとふみあかりの謎 その1
今回から阿麻和利に絡み、数回にわたってももとふみあかり(百踏揚)について考察します。彼女は阿麻和利の正室として知られていますが、ブログ主が「おもろさうし」に登場するももとふみあかりを調べてみたところ、彼女ほどイメージが二転三転した存在はいません。
阿麻和利の謎 – 勝連按司(3)
今回は勝連按司に絡んで、通説の「阿麻和利」について言及しますが、ご存じの通り彼の出自については確定した定説はありません。ちなみに阿麻和利の出自が初めて公に明らかにされたのは、ブログ主が知る限り明治38(1905)年、琉球新報に掲載された「阿麻和利考」においてであり、偉大なる伊波普猷先生は「敵者である夏氏※」と断った上で彼の出自について紹介しています。
※参考までに夏氏とは大城賢雄を祖とする一族で、七代目が有名な湛水親方幸地賢忠(1623~1683)です。
阿麻和利の謎 – 勝連按司(2)
前回の記事において、ゑそにやすゑ(恵祖根屋末)について言及しました。もちろん勝連按司と関わりがある歴史用語なので説明したわけですが、それ以上に古代から16世紀におけるりうきう社会において、王や按司たちの権力の継承ルールが17世紀以降とは違うことを認識していただきたいからです。
阿麻和利の謎 – 勝連按司(1)
今回からは勝連城の城主こと按司〔?aNzi:ア”ンジ〕について言及しますが、その前に17世紀以前のりうきう社会において為政者たちから最も意識された「王」について説明します。
阿麻和利の謎 – 玉ノミウヂ御嶽
前回の記事において勝連城における最も重要な場所である「玉ノミウヂ御嶽」について言及しました。おもろさうしでは「たまのみうち(玉の御内)」と表記され、意訳すると「美しい御庭」になります。
阿麻和利の謎 – 肝高(2)
前回の記事にて、肝〔cimu:チム〕の原義について言及しました。「霊気」または「霊気が宿る」の意から転じて「心」になったのではと推測ましたが、ちなみに肝には「中心(もっとも重要な場所)」のニュアンスが含まれます。となると勝連城の中心はどこかについて考察する必要がありますが、その答えは現地を訪れたことですぐにわかりました。