今回は高嶺朝光(たかみね・ちょうこう)さんの著書『新聞五十年』から、戦前の瀬長亀次郎さんに関する記述を掲載します。瀬長さんはたしか昭和6年(1931)に共産党に入党、本土で労働組合活動中に検挙され、3年の懲役刑を受けます。そのうち1年は沖縄刑務所に服役して、出所後は県の工業指導書で蒔絵職人として働きます。
人物
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~恩知らずカメジローの巻
前回の記事で瀬長亀次郎さんが中国戦線から復員した昭和15年(1940)以降、平良辰雄さん(1892~1969)のお世話になっていたことを記述しました。その縁があって、沖縄戦終了後の捕虜収容所の時代(田井等)においても瀬長さんは平良辰雄さんの下で再び働くことになります(平良辰雄さんは収容所の市長に就任、瀬長さんは庶務課長として勤務しています)。
カリスマの担い手としての瀬長亀次郎さんの役割
前回、瀬長亀次郎さんが大東亜戦争の際に “翼賛壮年団” に加入していた件について記述しました。この事実は瀬長さんの回想録や『沖縄人民党の歴史』あるいは瀬長フミさんの回想録『熱い太陽のもと激動の島に生きる』など関連著作には一言も記述がありません。つまり黒歴史として抹殺されているのですが、瀬長さんの生き様を振り返るとやむを得ないかなと思います。その理由は彼が “カリスマ的指導者” として人民党を率いていたからです。
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと
2017年8月12日に佐古忠彦監督、TBSテレビが製作したドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が公開されました。ちなみにブログ主はこの映画は未だ見ていませんが、その間に『瀬長亀次郎回回想録』など瀬長さん関連の書籍をいろいろチェックしていました。
瀬長さんのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強いのですが、ブログ主がいろいろ調べているうちに瀬長さんが決して口外しないワードが複数あることに気がつきました。それは現時点で確認できたのが3つあって
明治29年4月20日の女子講習科の入学試験
今回はブログ主が確認した限りですが、おそらく歴史上初の女子に対する選抜入試試験の内容を紹介します。
琉球・沖縄の歴史において女子が小学校へ入学したのは明治18(1885)年ですが、それから11年後の明治29(1896)年に女子講習科(速成の女子教員養成学校)の選抜入試試験が行われます。その内容が非常に興味深いので今回ブログで公開します。
太田朝敷関連の史料
太田朝敷関連の史料まとめです。史料は随時追加します
※令和05(2023)年1月15日、ブログの大整理のため、当ページの誤字脱字の訂正、レイアウト変更、および資料を追加します。今回のチェックで興味深いのが、「おおた姓」の表記に関して、大正5(1916)と昭和12(1937)の資料では「大田」と表記されている点です。ちなみに、昭和5(1932)年に刊行された『沖縄県政五十年』では「太田」と名乗っているため、案外当時はどっちでも良かったのかもしれません。
ちなみに、旧漢字は読者の便を図るべく訂正済なので、原文は引用元リンク先でご確認いただけると幸いです。
琉球新報ほか沖縄のマスメディア関連の資料
琉球新報ほか、沖縄のマスメディア関連の資料を掲載します。
※令和05(2023)年1月19日、一部記事を削除し、関連リンクを挿入しました。あと読者の弁を図るべく、記事レイアウトも変更済です。今後、沖縄マスメディア関連の資料は、新規の記事として当ブログにてアップするのでご了承ください。
琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと 挿話
今回は、すこし横道にそれますが前回の記事に貼り付けしたアイキャッチ画像について説明します。撮影時期と場所は不明ですが明治時代から昭和にかけての女子学生の服装の変遷がハッキリわかる貴重な写真です。
写真は「那覇百年のあゆみ、那覇市企画部市史編集室、昭和55年刊行」から抜粋したもので、写真右から順に明治→大正→昭和の順になっています。「那覇市百年のあゆみ」の説明文を参考に女生徒の服装の移り変わりを説明します。
琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その13
前回ハジチの慣習が廃れた理由の一つに明治32(1899)年に施行された入墨禁止令がきっかけで沖縄県内からハジチセークが激減したことを挙げました。今回はもう一つの理由として女子教育の普及について述べます。
沖縄における女子教育は男性に比べるとだいぶ遅れてスタートします。ブログ主が確認できた最初の記録は明治19(1885)年に那覇市西町にあった師範学校付属小学校に女性徒3名が入学した件です。(那覇百年の歩み、那覇市企画部史編集室、昭和55年発行より確認)