県内の暴力団の中で、これまでにないほど、絶対的な力を誇示して来た二代目旭琉会多和田真山会長も、配下の組員の撃ち込んだ2発の銃弾にあっけなく倒れた。流血の抗争を繰り返して来たその歴史の中で、多和田会長自身も殺人を犯したが、やはり、穏やかな死は迎えられなかった。
多和田真山
”狙われたドン”(1)/ 島(シマ)割り
県内各地で暴力団排除の市民運動が展開されているなかで9日未明、沖縄市上地のスナックで県内最大の組織暴力団、二代目旭琉会の多和田真山会長(49)が2発の銃弾で倒された。同射殺事件は、犯人2人の20時間ぶりの逮捕によって一応の決着がついたかにみえる。しかし、過去の暴力団抗争が示すように、この世界は「目には目を、歯には歯を」の世界。いつ何時、血で血を洗う抗争が再燃するか、予断を許さない。
俺が調子に乗って沖縄ヤクザ関連の史料を公開するよ その2
今回は沖縄ヤクザ関連の積み史料から、那覇派関連の記事を紹介します。昭和37(1962)年にはいり琉球警察は那覇派とコザ派が西原飛行場で対決するのではとの情報をつかみます。この案件はブログ主も初めて知りましたが、前年9月の西原飛行場でのリンチ事件によって那覇派とコザ派が険悪な状態になっていたことの傍証と言えます。
俺が調子に乗って沖縄ヤクザ関連の史料を公開するよ その1
年末年始の休みを利用して、ブログ主はこれまで蒐集した史料を整理していますが、その際に沖縄ヤクザに関する貴重な記事を再発見することができました。後に “旭琉会” のビッグネームをして知られる人物たちのチンピラ時代など、きわめて興味深い内容となっています。
見えない危機
先月26日付の沖縄タイムス内に、ブログ主の目に留まった記事がありましたので紹介します。ちなみに同日の記事は東京都の週末自粛要請や、春季高校野球の開幕、そしてタレントの志村けんさんの新型コロナウィルス感染などが掲載されてますが、その中で社会面(26ページ)に記載されていたある詐欺事件に関して気になる記述がありました。
沖縄ヤクザ関連のトリビア
今回はこれまでブログ主が精力的に蒐集した沖縄ヤクザ関連のちょっとした小ネタを提供します。年末年始の忘年会あるいは新年会など飲み会の雑談で利用していただくとありがたいです。
今回に限らず沖縄ヤクザ関連のお話は原則として新聞など公開情報を元にしています。伝聞あるいは非公開情報は取り上げないようこころがげていますのでご了承ください。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。
図解してみた – 幻の組織”極南会”
昭和38(1963)年11月21日から、又吉世喜殺害未遂事件(ほか証人脅迫)の裁判が米国民政府高等裁判所で始まりました。被告人は喜舎場朝信、新城喜史で、実はこの裁判は琉球・沖縄の歴史上初の “大陪審員制度” で行われた歴史的な出来事です。
ちなみに実行犯の(疑いがある)山中一夫は国外である “宮崎県” で逮捕されるというこれまた異例の展開ですが、この裁判においてコザ派内部に “組織” が存在していたという証言が飛び出して世間は騒然とします。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部レイアウト変更済。
勇吉、秀吉は組に帰せない
今回はブログ主が蒐集した沖縄ヤクザ関連の史料のなかから、多和田真山さんのインタビュー記事を掲載します。昭和53(1978)年11月30日発行の大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』から抜粋しましたが、ブログ主は取材にたいして出来る限りの応対を心がけている多和田会長の態度に驚きを隠せませんでした。
約二時間ほどの取材で、記事も(おそらく)インタビュー全文を掲載していませんが、それでも抗争の経緯や旭琉会の立場、そして今後の成り行きについて丁寧に説明しているあたり、やはり彼はトップに立つ人物だと実感しました。ブログ主が多和田真山さんに強く興味を持ったのも、この記事をよんだことがキッカケにあります。該当部分を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。
おくやみ欄と暴力団 – その2
前回「おくやみ欄と暴力団」と題した記事を配信しましたが、実はそのほかにも沖縄ヤクザ関連のお悔やみ記事を入手しましたので紹介します。正直なところ掲載されている人物のメンツがあれなので当初は公開をためらったのですが、戦後沖縄社会を伺う上で一級史料であるのは間違いありません。そのためブログ主判断で公開しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。
図解してみた – 第六次沖縄抗争
既報ですが、7月12日に指定暴力団「旭琉會」の富永清会長が死去しました。当ブログでも当日午後から彼について言及した記事のアクセスが異様に伸びていたので、現代の情報伝達スピードの凄さを実感した次第ですが、今回は “富永清” の名を世間に知らしめた第六次沖縄抗争について図解を試みましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。
多和田真山さんの思い出
ブログ主は不定期ではありますが、過去の新聞や刊行物から沖縄ヤクザ関連の史料を蒐集・整理しています。その中で異彩を放つ人物はだれかと問われると、ブログ主は “多和田真山” と即答します。
突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – スポーツ編
平成30年(2018年)10月6日付の “Number Web” に “プロ野球選手の昔の風格が凄かった!衣笠祥雄の秘蔵写真とカメラマン秘話” と題したコラムが掲載されてましたが、その中の全日空ボーイング737機のタラップから降りてくる広島東洋カープの選手たちの写真を見たときに、ブログ主は最初絶句その後爆笑してしまいました。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その2
以前、沖縄ヤクザに関するエピソードを当ブログにて紹介しました。この記事は予想の斜め上をいく反響があり、調子に乗ったブログ主が現時点で蒐集したエピソードを掲載します。ちなみに沖縄ヤクザの歴史に興味を持った理由はただひとつ、以前にも指摘しましたが大日本帝国時代にはアウトローを束ねる組織がなかったからです。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた
唐突ですが、今回は沖縄ヤクザ関連のネタを適当に並べてみました。実は琉球王国および戦前の沖縄には現代のようなヤクザ組織はありませんでした。沖縄戦後、アメリカ世になって初めてアンダーグラウンドの世界を仕切る反社会的な集団が誕生します。この点は琉球・沖縄の歴史を語る上で重要なので、ブログ主は不定期ですが当時の新聞などを確認して情報を収集しています。大雑把にいって昭和27(1952)年から昭和42(1967)年ごろまでのエピソードを思いつくまでに並べてみました。是非ご参照ください。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。