人物

ももとふみあかりの謎 その3

今回は “王族のふみあかり” について言及しますが、彼女に関しては巻六「首里大君、せんきみ、君がなし、百踏揚、君の辻のおもろ御双紙」の中にももとふみあかり(百踏揚)の名を冠したオモロが9つあることがよく知られています。

ところがブログ主が衝撃を受けたのが巻一「首里王府の御さうし」に掲載されていたオモロで、それによって従来の彼女のイメージが一変する事態となりました。そして彼女の名が登場するオモロをチェックして出た結論が、

① ももとふみあかりは複数存在する。(この点については前回言及済)

② 王族のふみあかりは実在した。ただし通説の如く尚泰久王の実娘とは限らない。

③ オモロだけを見る限り、ももとふみあかり(百踏揚)は越来や勝連とは関わりがない。

になります。③に関しては反論する向きもあるかもしれませんが、実はももとふみあかり(百踏揚)と勝連が結びついたのは18世紀に写本された「安仁屋本」系統からの話であって、ブログ主がチェックをした限り、最も原本に近い写本と言われている「尚家本」からはその形跡がありません。

それは置いといて、今回は巻一「首里王府の御さうし」に掲載されたオモロを紹介します。

(一ノ二九) 大さとのけすのおもいあんしきゃふし

一 よなははま、きこゑ、大きみ、やちよ、かけて、とよまさに

又 ありきくち、とよむ大きみ、やちよ

又 はてん、はま、きこゑ、てるきみ、やちよ

又 あからかさ、もゝと、ふみやかり、やちよ

(一ノ二九)大里の下司の思い按司が節

一 与那覇浜、聞得大君、八千代、掛けて響もさん。

又 明き口、響む大君、八千代(一節三行目折返、以下同)

又 場天浜、聞こえ照君、八千代、

又 赤ら傘、百踏揚、八千代、

鳥越先生の解釈は「①②天界の入り口である与那覇浜で、鳴りひびく大神なる聞得大君が、八千代(長い年月)に及んで鳴りひびかせるであろう。③場天浜で照君(女神官名)が、八千代に……④赤ら傘(地名)でももとふみあかり(百踏揚)が、八千代に……とあり、説明によると、

同文の22の24の前注に「知念久高行幸之時のおもろ与那原村稲福親雲上宿を御打立前に」とあるように、各国王が隔年この地方の聖所巡拝の行幸の際、大里間切与那原村の稲福親雲上の家で休憩されて後、ここを出発するときに歌われるオモロであったことが知られる。ここから先が聖所の点在する地域で、そのためそこへいよいよ入ろうとされるにあたり、行き先の守護と安泰を意味して歌われたものであろう。与那覇浜は与那原村の御殿山に浜の御殿の仮屋が設けされるが、その御殿山の下の浜の称である。場天浜は佐敷の湾入した入江である。

とあり、国王が南部の聖地を訪れる際のオモロであることが分かります。ここで問題なのが、与那覇浜の対語として「明き口(天界の入り口)」が、場天浜の対語として「赤ら傘(神の降臨する依り口)が用いられており、そうなると聞得大君の対語として「響む大君」が、聞え照君の対語として「百踏揚」が用いられていると考えたほうが自然であり、それはつまり

照君とももとふみあかり(百踏揚)は同一人物

であること意味します。なぜ鳥越先生が3人の女神官と解釈したのかは不明ですが、ここは単純に「首里から南部の聖地に行幸する国王のお供として、聞得大君とももとふみあかり(百踏揚)が同行し、旅の安全を確証するオモロを国王に授けた」と考えたほうがすっきりします。

ただしブログ主の解釈には難点があって、それは「聞え照君が」で始まるオモロが複数あり、その中ではももとふみあかり(百踏揚)が登場していないからです※。既に言及しましたが、「おもろさうし」における対語表現は「人名(地名)/特性(性質)」が基本であり、例外として逆パターンも複数ありますが、このケースですと、どれが聖名か特性かの判断が極めて難しいからです。

※「聞え照君」から始まるオモロは対語として「響む(=なりひびく)照君」が、「ももとふみあかり(百踏揚)や」で始まるオモロには対語として「君の(=神の)踏揚」が用いられています。それ故にてるきみ(照君)とももとふみあかり(百踏揚)が別人であると判じてもおかしくはありません。

ただし、照君に関してはももとふみあかり(百踏揚)と違って「女官御双紙」では雑に扱われていることと、ももとふみあかり(百踏揚)に関しては「おもろさうし」でわざわざ巻が設けられている存在が故に、ここではふみあかり(百踏揚)が聖名でてるきみ(照君)が特性と見做して話を進めます(続く)。

ももとふみあかりの謎 その2

前回の記事において、ももとふみあかり(百踏揚)女神官は古りうきう時代に複数存在していた可能性について言及しました。そして同女神官と島尻地方との関わりについて考察していきますが、その前に王族以外の “ももとふみあがり” について言及します。

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尚泰久王の謎

今回は、ももとふみあかりに関する人物として尚泰久王(1415~1460)の “謎” について考察します。彼は定説によると尚巴志(1372~1439)の五男で、越来の按司から第6代のりうきう国王に即位した人物です。そしてももとふみあかりの実父としても知られていますが、彼にはこれまで解せなかった謎があります。それは神號が2つあることです。

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ももとふみあかりの謎 その1

今回から阿麻和利に絡み、数回にわたってももとふみあかり(百踏揚)について考察します。彼女は阿麻和利の正室として知られていますが、ブログ主が「おもろさうし」に登場するももとふみあかりを調べてみたところ、彼女ほどイメージが二転三転した存在はいません。

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阿麻和利の謎 – 勝連按司(3)

今回は勝連按司に絡んで、通説の「阿麻和利」について言及しますが、ご存じの通り彼の出自については確定した定説はありません。ちなみに阿麻和利の出自が初めて公に明らかにされたのは、ブログ主が知る限り明治38(1905)年、琉球新報に掲載された「阿麻和利考」においてであり、偉大なる伊波普猷先生は「敵者である夏氏※」と断った上で彼の出自について紹介しています。

※参考までに夏氏とは大城賢雄を祖とする一族で、七代目が有名な湛水親方幸地賢忠(1623~1683)です。

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阿麻和利の謎 – 勝連按司(2)

前回の記事において、ゑそにやすゑ(恵祖根屋末)について言及しました。もちろん勝連按司と関わりがある歴史用語なので説明したわけですが、それ以上に古代から16世紀におけるりうきう社会において、王や按司たちの権力の継承ルールが17世紀以降とは違うことを認識していただきたいからです

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阿麻和利の謎 – 勝連按司(1)

今回からは勝連城の城主こと按司〔?aNzi:ア”ンジ〕について言及しますが、その前に17世紀以前のりうきう社会において為政者たちから最も意識された「王」について説明します。

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阿麻和利の謎 – 玉ノミウヂ御嶽

前回の記事において勝連城における最も重要な場所である「玉ノミウヂ御嶽」について言及しました。おもろさうしでは「たまのみうち(玉の御内)」と表記され、意訳すると「美しい御庭」になります。

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阿麻和利の謎 – 肝高(2)

前回の記事にて、肝〔cimu:チム〕の原義について言及しました。「霊気」または「霊気が宿る」の意から転じて「心」になったのではと推測ましたが、ちなみに肝には「中心(もっとも重要な場所)」のニュアンスが含まれます。となると勝連城の中心はどこかについて考察する必要がありますが、その答えは現地を訪れたことですぐにわかりました。

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阿麻和利の謎 – 番外編(3)

今回は番外編として謝名もい〔zanamee:ヂァナメー〕こと察度の伝説について考察します。今回取り上げるのは察度が勝連按司の娘を娶る物語ですが、ちなみにこの話の初見は羽地朝秀著「中山世鑑」です。つまり17世紀の意識高い為政者が、りうきうの伝説をどのように解釈していたかを知る貴重な内容と言えますが、先ずは物語の大意を紹介しますので是非ご参照下さい。

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阿麻和利の謎 – 肝高(1)

今回は勝連の対語である「きむたか」について言及しますが、その前におもろさうしの対語表現について説明します。

おもろさうしでは対語が多数見受けられますが、これは「同じ言葉をくり返し使わない」という理にかなった文学表現です。ちなみにおもろそうしの対語表現は、最初に人名(あるいは地名)を唱え、別行で性質や特性を表記するケースが多く、たとえば首里森(首里城のこと)の対語は真玉森であり、意訳すると「美しい首里王城」になります。

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阿麻和利の謎 – 勝連(2)

前回の記事で、かつれんの方言読み(カッチン)から、ブログ主なりに語源を考察してみましたが、実際に勝連城跡を訪れた際に、謎があっさり解けた感を覚えました。確かにあの場所は「古りうきうの住民たちにとって神の恵みを実感できるところ」で間違いないのです。

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阿麻和利の謎 – 勝連(1)

今回から数回にわたって「勝連」の名称についてブログ主なりに考察します。というのも「おもろさうし」に登場する「かつれん」は二つの意味を含んでいることに気が付いて、強い興味を抱いたからです。

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阿麻和利の謎 – 番外編(2)

前回の記事において、おもろさうし巻10「ありきゑとのおもろ御さうし」にあるりうきう開闢のオモロについて言及しましたが、今回は「中山世鑑」に掲載されている天地開闢物語との違いについて深堀します。

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阿麻和利の謎 – 番外編(1)

今回は阿麻和利の謎の番外編として、おもろさうしに掲載されているりうきう天地開闢のオモロについてブログ主なりに解説します。というのも古りうきうの神観を伺うにはこのオモロは格好の史料だと確信しているからです。ただし非常に長く、わかりにくいオモロでもありますので、今回は大意と解説を先に、そしてオモロ本文は最後に掲載しますのでご了承ください。

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