前節まで廃藩置県直後の旧慣温存政策について長々と記述しました。本題である「廃藩置県がなぜ現代の歴史家に過小評価されている3つの理由」に戻りますが、1つ目の理由は琉球藩の時代その2で述べた通り当時の琉球人が日本本土と同一の制度を施行することを望まなかったからです。前ふりが長い気がしますが、琉球藩の時代はこの話題を終えてからにします。
誤解だらけの琉球藩の時代
琉球・沖縄の歴史で最も誤解されている琉球藩の時代について調子に乗って語ります。
琉球藩の時代 その5
前回までに代表的な旧慣制度について説明しましたが、廃藩置県後に明治政府は旧来の制度を温存して沖縄県を統治します。これら措置は当時の時代状況を振り返るときわめて正しい措置です。沖縄県政五十年(太田朝敷著)において著者は当時の清国と日本の力関係が沖縄県における抜本的改革が遅れた理由であると看做して近代化の遅れを激しく批判しています。
実際に廃藩置県から日清戦争前の国力は清国>>>>日本でしたので、太田先生のご意見はごもっともですが、明治政府側が急激な改革を断行することによる社会的混乱を恐れたことも見逃すことができません。2代目県令の上杉茂憲氏(1881~1883)が当時の沖縄県の疲弊に衝撃を受けて抜本的改革を政府に提案しましたが、実際に改革が施行したら悲惨な結果になったこと間違いありません。
琉球藩の時代 その4
前回の記事で琉球王国(あるいは琉球藩)の時代の旧慣(作付制限、土地制度)について説明しました。今回は税制と法律(内法)について述べます。
3.税制:琉球国の税制は尚真王の時代(在位1477~1527)に確立します。その詳細の説明は省きますが、1609年(慶長14)の薩摩入り後に一部税制が改正されます。納税単位を個人から村に変更したのです。
税制の変更は前述した地割の制度の本格運用と密接に関連していますが、ただし税率に関しては各間切の間で不均等な状態を改正することはありませんでした。薩摩に収める貢租に関しては統一ルールがありましたが、琉球王府および間切や村を所有する地頭あるいは地方役人に対する課税は各地方によってバラバラで、そのため税率に著しい不均等が生じてしまったのです。
琉球藩の時代 その3
~旧慣温存について~
琉球・沖縄の歴史において1879年(明治12)の廃藩置県後の旧慣温存政策は何かと批判的に記述される傾向があります。では「当時の旧慣とは何ぞや?」と問われて即答できる人はあまり多くはいないでしょう。現代の歴史教科書に詳しく記載していないのが原因ですが、ここでは当時の代表的な旧慣について説明します。
旧慣温存とは琉球王府の時代に施行された政策、具体的には土地制度や税制などを指しますが具体的な例を4つほどあげます。
琉球藩の時代 その2
~廃藩置県が現代の歴史家に過小評価されている3つの理由 その1~
1つは当時の琉球人が政治・社会のドラスティックな改革を望んでいなかったからです。当時の琉球社会の上級階級である有禄の士族、あるいは廃藩置県で失業した下級士族が新政府によい感情を抱くことはありません。
実は人口の多数を占める農民たちもドラスティックな改革を望まなかったのです。廃藩置県後に上級士族に対する課税が全廃され、税負担が大幅ダウンしたことによって当時の農民は新政を大歓迎します。ただし内法*や地割制度*に代表される琉球国時代に完成した社会秩序の改革までは歓迎しなかったのです。
琉球藩の時代 その1
ここ数日高校野球ネタばかり記事にしていて本ブログの趣旨である琉球・沖縄の歴史の記事がなかなかアップされていませんでした。夏の甲子園沖縄予選の決勝も終わったので、本題である歴史の話題に戻ります。今回から琉球藩から大日本帝国の沖縄県に至るまでの歴史(1872~1879)を簡単に記述しますが、これまでの歴史家が記述する否定的な内容とは一線を画する内容になります。