誤解だらけの琉球藩の時代

琉球・沖縄の歴史で最も誤解されている琉球藩の時代について調子に乗って語ります。

琉球・沖縄の歴史上最悪の布令

早速ですが、比嘉春潮著『沖縄の歴史』の一節をご参照ください。

1861年(尚泰14)年正月26日、首里王府は「御国元(薩摩)で小銭が少なくなったので、銅銭一文に鉄銭二文引合で御蔵の収入支出・領内一般通用することになった。当国でも御国元同様の引合で通用を仰せ付けられたについては、諸座諸蔵は座検者で取締り、首里泊那覇久米村は横目・惣横目、田舎は小横目で取締ることにする。もし違犯の者があったらそれぞれ処罰する」という布令を出した。昨日まで同価値で通用していた銅銭と鉄銭が、今日から二と一の割合に通用価値が変動したわけであった。これを文替(もんがわり)と称した

続きを読む

化外ノ野蕃

前回の記事において、日本と清国における琉球帰属の認識の違いについて述べました。今回は台湾出兵における有名な「化外の○○」という語句について言及します。たとえば喜舎場朝賢著『琉球見聞録』の15㌻を参照すると、

(明治7年)4月陸軍中将西郷従道軍を率て台湾生蕃を膺懲す。初め明治4年琉船三艘宮古島へ赴く洋中逆風に遇ひ台湾生蕃牡丹社の地に漂泊し礁に触れ破壊し七十余名漂水して岸に上る生蕃人のために剽掠殺害せられ僅か十数名遁走し稍く福州に達し生還を得たり。朝廷条約を締ぶ事のために副島(種臣)外務卿を清国へ遣はさる其の時台湾生蕃の琉人を殺害したる罪を責む。清国政府云う、生蕃は化外の地我が照管する所に非ずと是を以て……

と記載されています。「化外の○○」という文言は明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門において日本と清国側での外交交渉のなかで「化外の野蛮」という文言が発せられ、これが元ネタではと考えています。今回その部分を抜粋しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

続きを読む

属国と属藩の違い

今回、当ブログにおいて明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門(清朝の外交官庁)における日本と清国との外交についての記事を掲載します。明治4年(1871年)11月に起きた宮古島島民遭難事件に関する交渉記録を参照すると、実に興味深い点がいくつか確認できました。教科書等でもよく知られている「化外の民」という語句の元ネタがこの時の折衝であったことと、日本と清国側で琉球の帰属に関する認識が異なっていることが分かる内容が記載されています。読者のみなさん是非ご参照ください。

続きを読む

浦添・川平親方の嘆願書

ここ数日の間、ブログ主は琉球藩時代の資料を基に記事を作成していますが、今回は明治5年(1872年)9月4日(旧暦)に三司官(浦添親方、川平親方)より在番所(琉球国内に設置された鹿児島県庁の出張所)に提出された嘆願書について言及します。

この嘆願書は前年11月の宮古島島民遭難事件に対し、朝廷(明治政府)側が台湾出兵を計画しているとの風評を聞いた王府側が、かくかくしかじかの理由にて出兵はお取り止めしてほしい旨記載し、在番所経由鹿児島県側に提出したものになります。ブログ主は今回初めてこの嘆願書を目にしましたが、この中で当時の琉球王国をとりまく国際環境が伺える内容が記されています。史料は東恩納寛惇著『尚泰候実録』204~204㌻から原文を写本し、今回も試みにブログ主による読み下し文および解説も併記しました。読者のみなさんぜひご参照ください。

続きを読む

伊地知貞馨の復命書

今回は明治6年(1873年)5月31日、伊知地貞馨(いじち・さだか)によって朝廷(明治政府)に提出された復命書(命令に従ってした事の経過・結果を命令者に報告)について言及します。史料は『琉球所属問題関係資料第六巻琉球処分(上)』から抜粋しました。ブログ主が試みに作成した読み下し文も併記します。読者の皆様、是非ご参照ください(原文は読み飛ばしても可)

続きを読む

孟子の一節(梁恵王章句下)

先日、孟子〈上〉(岩波文庫)- 小林勝人訳注を読んでいる最中に、ハタとひらめいた一節がありましたので、紹介します。先ずは全文(読み下し文、現代語訳)をご参照ください。

続きを読む

琉米修好条約の顛末(下)

前回の記事において、安政元年(1854)に締結された琉米修好条約が、明治5年(1872)の琉球藩の設置によって日本政府に引き継がれる経緯について説明しました。そうなると、明治政府側で条文を把握する必要があり、外務省は琉球藩に対して条約正文(原本)の提出を要求します。前回も記載しましたが、明治5年9月28日付けで琉球藩の外交事務を外務省が管轄する令達が発せられます。

続きを読む

琉米修好条約の顛末(上)

以前ブログ主は、安政元年(1854)にアメリカ合衆国と琉球王国との間に締結された「琉米修好条約」の記事を掲載しました。当条約は明治12年(1879)の廃藩置県によって失効扱いですが、明治5年(1872)における琉球藩の設置に伴い、アメリカ側から先年琉球王国と締結した条約を日本政府が継承し遵守するかを問い合わせる外交文書がありましたので、この場を借りて掲載します。

時系列順に史料を掲載します。先ずは明治5年(1872)9月14日の琉球藩に封ずる勅書から掲載します。

続きを読む

琉球・沖縄の歴史において何時から「日本ノ國旗ヲ立ツ」ようになったのか?

20170524

以前にブログ主は「我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか」との記事を掲載しましたが、その際に喜舎場朝賢著『琉球見聞録』を参照しました。その中に明治8年(1875)8月21日付で琉球藩に在勤していた河原田盛美(かわらだ・もりはる)氏が、藩庁の官吏宛に提出した意見書が掲載されていて、同氏は琉球が日本の属藩であることを証するとして16か条を挙げています。

河原田氏は「抑モ清國ノ関係ヲ断タシムル者ハ日本ノ属藩ナレバナリ、日本属藩ノ證トスルモノ大略十六ケ條アリ」と前置きして、一つ一つ事例を挙げていきますが、15番目に「日本ノ國旗ヲ立ツ」と述べています。この記述によれば琉球藩の時代から日章旗を掲げていたことになりますが、では何時ごろから沖縄において日本の国旗を掲揚するようになったのでしょうか?

続きを読む

閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その9

King_Sho_Tai

これまで長々と、明治8年(1875)5月29日の明治政府の御達書に対する松田道之と琉球藩(交渉役は主に三司官が担当)について言及しました。なぜこれ程惨い交渉になったかと言えば、国王尚泰の決断力のなさが最大の原因であることは間違いありません。補足として琉球藩の行政組織は下図をご参考ください。

続きを読む

閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その8

先にフェイスブック上で、明治8年(1875)の松田と三司官との交渉をテンプレ形式でまとめて投稿しました。思った以上に出来がよかったので、一部訂正して当ブログ内でも掲載します。余談ですが大城立裕著「沖縄歴史散歩」のなかで、著者は琉球処分官として来琉した松田道之のことを絶賛していますが、ブログ主も同じ感想です。

続きを読む

閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その7

我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか?の連載が意外に長引いています。本来ならその5ぐらいで終わらすつもりでしたが、琉球藩時代の当局の対日外交が余りにも稚拙なため、予定を変更して(当時の対日交渉の)失敗の本質の考察を詳細な限り行います。

前回の記事で、明治8年の5月29日の明治政府の御達書に対する琉球藩当局の対応について、

・明治政府の全権委任で来琉した松田道之のメンツを潰していること。

・二枚舌を使ったこと

の2点を厳しく批判しました。実は琉球藩当局が明治政府から委任された松田を頭ごなしにして、直に政府に嘆願しようとしたのは訳があります。ブログ主は、「琉球見聞録」に記載された松田と三司官との間の論戦において、何となくではありますがその理由を垣間見ましたので紹介します。(旧漢字はブログ主で訂正すみ)

続きを読む

閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その6

明治8年(1875)5月29日の太政大臣三条実美名義での通達への対応について、当時の琉球藩庁の対日交渉はそれこそ「おバカ」の見本なので、当ブログでは反面教師の教材として可能な限り詳細に説明します。理由は当時の対日交渉の実態について、現在の沖縄県民(および他府県人)は全くといって知らないからです。おそらく「明治政府が力で無理やり琉球藩を処分した。かわいそう」ぐらいの感覚しか持ち合わせていないと思われます。

先のFacebook への投稿者もおそらく同じかと思われます。明治8年から12年の廃藩置県に至るまでの琉球藩の当局の交渉を鑑みると、とても「だから我々の御先祖は賢く外交、友好で国を栄えさせる道を選んだのだから」なんて主張ができなくなります。廃藩置県(琉球処分)に関しての現在の沖縄の歴史認識では否定的な意見が多いのですが、ブログ主はあえて肯定的に捉えています。極言すれば「こんなおバカな連中を社会の表舞台から退場させた明治政府GJ!」になりましょうか。

続きを読む

俺が調子に乗って『琉球紀行』を解説するシリーズ その2

今回からはがブログ主初めて『琉球紀行』を読んだ際にガチで挫折しかけた箇所の解説になります。明治時代の日本の役人さんから見て琉球の位階制度がややこしいというお話ですが、実際にブログ主も上手く説明できるかハッキリ言って自信ありません。ただし解説すると宣言した以上は弱音を吐かずにガンバって記事を掲載します。

続きを読む

続・琉球藩の時代 もしも大日本帝国が琉球王国を引き取らなかった場合のお話 最後に

今までの記事で、現在の沖縄においてもしも独立するならば、どのような条件が必要か考察しました。おさらいすると、

・戦後世代が抱える被差別意識を超える、琉球独立のための新しいイデオロギーの作成。

・東アジアにおいて中国共産党が冷戦に勝利すること

になります。ハッキリ言って両方とも絶望的に無理ではありますが、実際に上記の2条件は必要不可欠です。その条件を満たすことができなければ、沖縄の独立は不可能と断言しても構いません。

続きを読む