誤解だらけの琉球藩の時代

琉球・沖縄の歴史で最も誤解されている琉球藩の時代について調子に乗って語ります。

りうきうの闇深な話 – 真の恐怖

(続き)少し前に “りうきうの闇深な話 – プロローグ” と題して、明治5年から6年(1872~1873)ごろの琉球藩の様子について言及しました。その中で、琉球藩は明治政府と交渉して減税措置が施されたにも関わらず、藩内の税率が据え置かれた件について触れましたが、果たして差額は如何にして使われたか、それは次回のお愉しみでいったん記事を〆ました。

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りうきうの闇深な話 – プロローグ

今回も(当ブログ読者の意に反して?)真面目な歴史記事を提供しますが、今回は明治5年(1972)年9月に琉球國王尚泰が “琉球藩王” に封じられて以降のドス黑案件について言及します。

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砂糖前代とりうきう

今回は当運営ブログらしく?真面目な歴史ネタをアップします。1623年に我が沖縄において製糖業が始まったとされますが、興味深いことに大城立裕先生は著書『沖縄歴史散歩』の中で “これが沖縄にとって幸せであったか不幸であったかは決めがたい” と言及しています。

同著89ページによると、

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【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 – その5

(続き)明治8年7月の明治政府による御達書(行政命令)に対する琉球藩の交渉ですが、当初は個別案件に対して受けるか否かの話でした。たとえば刑法習得のため学生派遣は可、軍隊駐留は条件付きで可、清国との関係断絶や日本の年号統一、あるいは藩政改革は拒否などで、ここまでは明治政府から派遣された委員たちも想定の範囲内でした。

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【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 – その4

前回の記事で簡単ながら明治政府と琉球藩との国家間の違いについて説明しました。これだけ認識の違いがあると交渉がすれ違いになるのもしょうがない部分はありますが、それでもやってはいけないことはあります。

明治政府による琉球藩への行政命令(御達書)の中の清国との関係断絶に関して、同年9月4日に琉球藩王尚泰の署名付の公式回答を紹介しますが、これは前回記事で紹介した同年9月3日の回答の斜め上をいく酷い内容となっていますので読者のみなさん心してご参照ください。

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【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 – その3

今回も『琉球見聞録』をベースに明治8年9月における琉球藩の対日交渉について言及します。前回の記事で同年9月3日(新暦)の琉球藩王尚泰署名の公式回答が松田道之を怒らせたことを説明しましたが、なぜ琉球藩が「日清交渉において進貢中止が決定後、清国より正式な外交文書で進貢中止の通達があったのちに(明治政府の達書を)お請けします」なんて回答をしたのか、ブログ主なりに考えてみたところ、以下の仮説に行き着きました。

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【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 – その2

今回はひさびさに真面目な歴史記事を掲載します。以前、『【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 』と題した記事をアップしましたが、ブログ主も沖縄県民としてご先祖さまのやらかしに対してとかくのツッコミはいれたくないのです。だがしかし明治8年以降の琉球藩の対日交渉をつぶさに観察すると、あまりの酷さに

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【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法

今回は明治8年(1975年)に実際に起こった琉球藩の二枚舌交渉について言及します。事の発端は同年7月29日(新暦)に来琉した松田道之が通知した御達書の中にあった「清国との関係断絶」「日本の年号使用」そして「藩政改革」に対して琉球藩が難色を示したことです。

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勤労意識の違いについての考察

明治の時代に来沖した他府県人の手記を確認すると、必ずと言っていいほど男逸女労(だんいつじょろう)、あるいは遊手徒食(ゆうしゅとしょく)の表現を見かけます。男逸女労とは文字通り”男は働かず女が働いて食わせてもらう”の意味ですが、太田朝敷先生は『沖縄県政五十年』において「それはあらぬ誤解である」と憤慨しています。確かに太田先生のご指摘どおりこの件は誤解に基づく風評被害の一面がありますが、他方当時の士族たちに勤労意欲が欠けていたことは否定できません。試しに下記引用をご参照ください。

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國體政體永久不相替是迄通被仰付候段一昨年外務卿ヨリ御達有之

明治8年(1875年)における琉球藩と明治政府との交渉に関して調べているうちに、外務卿副島種臣より琉球藩国体永久不相替の言質とその覚書があり、それを理由に琉球藩が藩政改革を拒んだとの記述を見つけました。実際にそのような覚書があるのかチェックしたところ、意外にも簡単に見つけることができましたので今回当ブログにて紹介します。明治6年(1873年)9月20日付の琉球藩への達書をご参照ください。

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明治政府はなぜ琉球を日本と見做したか

今回は明治政府が何故琉球を日本の版図(主権の及ぶ範囲)と見做したかについて言及します。というのはブログ主が確認した限りですが数多くの琉球・沖縄の通史でこの件について詳細に説明している著書を見つけることができないからです。ちなみにこの案件について詳細に記述しているのが喜舎場朝賢著『琉球見聞録』や松田道之の『第一回奉使琉球始末』ですが、今回松田の史料を利用して当時の明治政府の琉球における立場について説明します。

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琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願

今回は明治6年(1873年)4月12日、伊江王子および三司官名義の嘆願書等の史料について言及します。原文は『琉球所属問題関係資料(全八巻)_第六巻琉球処分上・中』からの引用で、読み下し文はブログ主にて作成しました。この史料については仲里譲著『琉球処分の全貌』の64~67㌻にも詳しく記載されていますが、ブログ主と仲里氏では解釈に若干の違いがあります。

ただし史料を読み終わったときの感想は同じで、「余りの貧困に絶句して何を言ってよいかわからない(同著67㌻)」になります。その部分を抜粋しますのでご参照ください。

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琉球藩時代の惨状

以前、当ブログにおいて慶応2年(1866年)の冊封時点で、琉球王国は経済的に終わってしまった旨の記事を掲載しました。その惨状の爪痕は明治6年(1873年)を『琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願』など当時の史料からある程度確認することができましたので、当ブログにて紹介します。

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琉球王国はなぜ米仏蘭との国際条約に清国の暦法を使用したかの考察

先日、ブログ主は東恩納寛惇著『尚泰候実録』の351㌻(明治11年候36歳)の項目を読んでいたところ、同年10月7日付で在日清国公使の何如璋(か・じょしょう)が寺島宗則外務卿宛てに出した書簡についての記述に目が留まりました。その一部分を抜粋しますので、読者のみなさんぜひご参照ください。

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文替(もんがわり)に関する史料

今回は、文久元年(1861年)から始まった文替(もんがわり)に関する史料をチェックしてブログ主なりに纏めてみました。比嘉春潮著『沖縄の歴史』、東恩納寛惇著『尚泰候実録』、および『球陽(附巻四)』から文替に関する記述を抜粋して表作成すると次のようになります。

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