(続き)前回の記事で、玉陵に関する矛盾についていくつか言及しましたが、大雑把にまとめると、
シリーズ
たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その2
(続き)今回は、玉陵(たまうどぅん)について言及しますが、実はこの建築物は調べれば調べるほど “矛盾” だらけなのです。参考までに『球陽』をチェックすると、「尚圓王已ニ薨シテ、見上森ノ陵ニ葬ル。今番新ニ玉陵ヲ中山坊内ノ池ニ築ク。前ハ首里ノ大街ニ臨ミ、東ハ天界寺ヲ側ニス。先王尚圓王ヲ奉シテ、コノ玉陵ニ移葬ス。」とあり、見上森の陵(みやーぎむいうたき)に埋葬されている尚円王の霊骨を、1501年(尚眞王即位25年目)、玉陵に移葬したと記述されています。
たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その1
ここ数回、当運営ブログでは珍しく “古りうきう” の真面目な仮説記事を掲載し続けています。それはつまり、「古琉球の深淵 – おぎやかの謎」の続編を掲載すべく、彼女に関して集めた史料を改めてチェックしたところ、これまで気が付かなかった “盲点” に気づいたためですが、今回もその流れで「たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)」について言及します。
浦添朝満の謎 – その(2)
(続く)今回は、浦添朝満(1494~1540)の “失脚” について、ブログ主なりに言及しますが、実はこの案件で困ったことがあります。それは、彼が尚眞王の長男でありながら最終的に廃嫡の憂き目にあったため、後世の人たちから悲劇の主人公扱いされている点です。
浦添朝満の謎 – その(1)
今年に入って、「二代目聞得大君の謎」と題した記事を3回配信しましたが、実はブログ主の予想の斜め上を行く反響がありました。その際に、二代目聞得大君こと峯間(みねま)の史料をできる限りチェックしたところ、向氏小禄家(一世朝満)の一族に関する思いがけない事実に気が付きました。
りうきうと “くろんぼ” とイソップ物語
昭和の話ですが、我が沖縄では黒人のことを、普通に「くろんぼ」と呼んでいました。もちろん、今では「ヘイト・スピーチ」扱いになるため、(高齢者以外は)ほとんど使わなくなりましたが、ちなみにいつ頃から「くろんぼ」と呼ぶようになったのか考えたところ、実はいまいちよくわからないのです。
日子思想と「そんとん」
前回までアップした二代目聞得大君の記事に関連して、ブログ主は峯間聞得大君(と思わしき)オモロを複数チェックしました。今回は、その過程で改めて気づかされた古りうきうの為政者たちの宗教観の変遷について調子に乗って言及します。
二代目聞得大君の謎 – その3
(続き)前回の記事において、系譜上では浦添朝満の長女である峯間(聞得大君)が、血統的に慈山より格上だったとの仮説を提示しましたが、今回はこの点に関して、ブログ主なりに調子に乗って説明します。
“琉球国民” の考察
ここ数日、ブログ主らしからぬ真面目かつちょっとホラーな記事を掲載してますが、史料作成中たまたま琉球独立に関するじわじわくるツイートを見かけましたので、息抜きがてら調子に乗って言及します。
※「二代目聞得大君の謎 – その3」は次回アップします。
二代目聞得大君の謎 – その2
(続き)今回は二代目の峯間聞得大君について考察しますが、彼女の存在は史料上で二例確認することができます。一つが18世紀初期ごろに編纂されたと考えられる『女官御双紙(にょかんおそうし)』、もう一つが向氏家譜(小禄家)の一世浦添朝満(うらそえ ちょうまん)の項です。
※実は「峯間」の読み方が伝わっていないため、とりあえず日本語の「みねま」のフリガナを宛てておきます。
二代目聞得大君の謎 – その1
今年に入って、ブログ主は運営ブログ内の記事を大整理していますが、思った以上に「未完の記事」があることに気が付きました。その中の一つに “古琉球の深淵 – おぎやかの謎(1)” と題した記事があり、連載当時は興味深いテーマだったので、史料集めなど気合を入れて作成したのですが、気が付いたら続編をアップすることなく、1年以上放置されていました。
俺が疲れ直しに那覇市辻を散策した結果……
本日、ブログ主は沖縄県立博物館に籠って、「おもろそうし」の写本や必要な史料をコピーしてきました。ひさびさの写本作業はさすがに疲れたので、帰りがけに疲れ直しに那覇市辻町を散策中、じわじわする光景に出くわしました。せっかくなので写真撮影し、当ブログでアップします。最近真面目なネタが多かったので、読者の皆さん、息抜き代わりにお愉しみください。
今帰仁延子さんの考察 – その3
(続き)10代の経験が、後年に及ぼす影響についてはよく知られていますが、今帰仁さんも例にもれず、13歳から17歳までの4年間に受けた教育がその後の生きざまに決定的な影響を及ぼしたことは間違いありません。
その前に、彼女が如何に “特別な存在” であったかについて同級生の証言を紹介します。
今帰仁延子さんの考察 – その2
(続き)今回は、ブログ主が確認できた史料を基に、作成した今帰仁延子さんの年表をアップします。すると、幼少期の体験が今帰仁さんに決定的な影響を与えていたことが理解できますので、そのあたりをできる限り、そして調子に乗って分かりやすく説明していきます。
恐怖の白い粉(6) 原産地とルート
タイ国、専売制度を設け売りさばく いわゆる「発見の時代」にヨーロッパ人がやってくるまで、東南アジアの人々は、アヘンを知らずにいた。アヘンが公然と流れるようになったのは十九世紀。それは、十八世紀にイギリスの「東インド会社」が中国にアヘンを持ち込んできたのが最初だという。アジア人にアヘンは膨大なもうけになることを教えたのは今世紀になってからといわれる。一九二〇年ごろになると、タイ政府がアヘンから吸い上げた利益は、国庫収入の十五 – 二〇%を占めたという。