(続き)1972年(昭和47)に本土復帰を果たした後の世論調査では復帰してよかったと答えたのは5割程度でした。これが21世紀になると8割が復帰してよかったと回答しています。復帰後に日本政府および沖縄県庁が適切な政治運営を試みた結果ですが、沖縄県民が
シリーズ
琉球独立論に対して常々思うこと その6
(続き)琉球・沖縄の歴史において自治権の拡大運動は1件だけあります。1986年に頑固党*と開化党*の一部が主導して元琉球国王の尚泰を沖縄県知事に据えて自治権の拡大を目指す運動が起こります。これを公同会運動を呼びますが、この運動は明治政府に一喝されてあっという間に終息します。
琉球藩の時代 その13
手形入れの慣習は琉球・沖縄の歴史のなかで最悪な搾取と言っても間違いありません。前回述べた通りこの慣習の欠点はあらかじめ定められた買い取り価格が安すぎることです。しかもその買い取り価格が分かっているだけでも200年近く改訂されていないのです。
琉球藩の時代 その12
すこしさぼり気味だった琉球藩の記事を再開します。前回までハイパーインフレの経済環境で巨額の費用を要する冊封イベントを行ったクズエピソードを掲載しましたが、今回はおそらく琉球・沖縄の歴史家が最も語りたくない(とブログ主は思う)上級士族のクズエピソードを掲載します。
琉球独立論に対して常々思うこと その5
(続き)では琉球独立論者や自治権拡大を唱える人は北朝鮮の工作員か?と問われると、ハッキリ言ってそんなことはありません。単に自分たちの都合のいいように主体思想を利用しただけで、現代のように北朝鮮のイメージが悪くなった場合は「市民からの提案」など別の言葉を使って独立あるいは自治権の拡大を唱えているだけです。その程度の人たちが仮に北朝鮮の手先として活動しても対して成果をあげることはできなかったのではと思いますね。
琉球独立論に対して常々思うこと その4
(続き)アメリカ軍の占領行政を経験した世代には保守、革新ともに「薩摩に占領されて以来400年間沖縄は差別され続けてきた」という認識があります。ブログ主はこの共通認識を「被差別意識」と呼びますが、琉球独立や自治権の拡大の思想的根拠はこの被差別意識にあります。
歴史的に本当に差別され続けてきたかどうかは別にして、この被差別意識はもはや宗教レベルの観念になってしまっているため正直なところ説得のしようがないのです。この被差別意識をベースに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の主体思想が合体したのが現在の独立論や自治権拡大の思想とブログ主は考えています。
琉球独立論に対して常々思うこと その3
(続き)琉球独立論や自治権の拡大を唱える人たちはおおむね在沖縄米軍基地の撤廃の立場です。当然といえば当然ですが、基地撤廃の根拠として「(在沖)米軍基地の存在は沖縄の経済発展の妨げになる」と主張します。実はこの主張は正論そのもので、在沖縄米軍の存在よる軍事の制約が今後の沖縄県の経済発展の妨げになる可能性は十分にありうるのです。
一つの例として、沖縄本島の領空は米軍優先です。通信や領海も原則として米軍優先ですが、これらの軍事的制約を大幅に緩和することで沖縄本島は東アジアの通信や物流インフラの拠点として絶好の立地を確保することができるのです。
琉球独立論に対して常々思うこと その2
(続き)現代の国際社会では沖縄の独立は事実上不可能です。それでは自治権の拡大は可能でしょうか。10年ほど前に道州制の議論の際に沖縄だけは単独自治州で運営しようという提案がありました。大学教授ら知識人主導で琉球自治州の会を発足して活動していたようです。
ブログ主はそのときに刊行された書籍『琉球自治州の構想』を所持しているのですが、いま読み返すと突っ込みどころ満載で、率直に言うとこんなことを真面目に討論していたのかと呆れざるをえません。
琉球独立論に対して常々思うこと その1
沖縄県では極めて少数派ですが、日本国から独立して一国家としての琉球国を運営したい主張が見受けられます。まともに相手にされていないのが現実ですが、ここでは調子に乗って琉球独立論について常々思うことをくそまじめに記載します。
現代社会での独立国の定義は大まかにいうと
琉球藩の時代 その11
しばらく野球ネタが続いていましたが、すこし中断していた本ブログの本題である琉球。沖縄の歴史の記事をアップします。
1372年(建徳3/応永5)に時の権力者である察度(さつど)が中華の皇帝の使者を受け入れて冊封体制に加入して以来、琉球の権力者は中華の皇帝のお墨付きを得て初めて正式な国王となる慣例が定着します。
この慣習の欠点は冊封使の受け入れに莫大な費用がかかることです。冊封使の渡来(御冠船)は一行約500名程度、滞在期間は半年で、その間の滞在費や接待やイベント行事はすべて琉球王府の負担で、その内容は以下沖縄の歴史(比嘉春潮著)から抜粋します。
琉球藩の時代 その10
~琉球藩当時の社会構造 その2~
150年前の琉球王国の状況が今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にそっくりだと言うと苦笑いして無口になるケース、あるいは顔を真っ赤にして反論するケースなど人それぞれに反応が異なります。国が貧しかったのは事実も北朝鮮を引き合いに出す程ではとの指摘もあるでしょう。
幕末から明治初期において琉球王国(あるいは琉球藩)が貧しかったのは薩摩藩の長年にわたる搾取が原因だと主張する人もいますが、その説は真っ赤な嘘でむしろ薩摩藩への貢租義務を口実に琉球王府の百姓へ取った政策が結果として社会を極貧の状態に貶めてしまったのです。
琉球藩の時代 その9
~琉球藩当時の社会構造 その1~
1872年(明治5)に琉球国王尚泰は明治天皇により琉球藩主に封じられます。これによって琉球王国も琉球藩としてリスタートするのですが、では当時の社会はどのような状況だったかを簡単に記述します。
琉球藩の時代 その8
~廃藩置県が現代の歴史家に過小評価されている3つの理由 その3~
3つ目の理由は沖縄県人の手で琉球王国時代の負の遺産の解消ができなかったからです。自分たちの手で改革ができなかったコンプレックスは想像以上に強力で、現代でもこの劣等感か解消されているとは言えません。
琉球藩の時代 その7
前節で大日本帝国時代に行った改革がアメリカ軍の占領行政の時代になってようやく効力を発揮したと記載しました。これは日本本土と同一の制度を施行したことによる結果、近代法とは何かを沖縄県人が理解していた故にアメリカ軍の復興政策が大成功を収めたことを意味します。
特に重要なのは所有と契約の概念で、廃藩置県後の琉球人は上級士族も含めて所有や契約の概念がまったく理解できませんでした。土地整理事業(1899~1903)の際に当時の農民たちに土地の所有とは何かを理解させるために沖縄県庁および明治政府側は、各間切に出張所を設けて係員を派遣し、農民たちに土地所有の意義を一から説明して改革を断行します。
琉球藩の時代 その6
前節まで廃藩置県直後の旧慣温存政策について長々と記述しました。本題である「廃藩置県がなぜ現代の歴史家に過小評価されている3つの理由」に戻りますが、1つ目の理由は琉球藩の時代その2で述べた通り当時の琉球人が日本本土と同一の制度を施行することを望まなかったからです。前ふりが長い気がしますが、琉球藩の時代はこの話題を終えてからにします。