前回の記事では、1893年(明治26)に誕生した琉球新報について説明しました。今回は1951年(昭和26)9月に「うるま新報」から「琉球新報」に改題した現代の琉球新報社について記述します。
実は現代の琉球新報社は、大日本帝国の琉球新報社の伝統を完全に引き継いでいません。理由は
前回の記事では、1893年(明治26)に誕生した琉球新報について説明しました。今回は1951年(昭和26)9月に「うるま新報」から「琉球新報」に改題した現代の琉球新報社について記述します。
実は現代の琉球新報社は、大日本帝国の琉球新報社の伝統を完全に引き継いでいません。理由は
前回までは公同会事件における頑固党と、現在のオールおきなわの勢力との比較を記事にしました。時代も主義・主張も違えど、驚くほどの共通点があったのですが、今回からは琉球新報社の古今比較を記事にします。
公同会事件において琉球新報の果たした役割は非常に大きいものがありました。公同会運動の特徴は
前回の記事はすこしキツい内容になりましたが、歴史を振り返って現代のオールおきなわ(旧革新勢力)の行く末を考えると、答えはただ一つ「没落」しかありえません。理由は彼らの思想・心情を後世の沖縄県民が引き継ぐとはとても思えないからです。
その前に「没落」の意味を説明します。公同会事件後(1896~1897)に頑固党は沖縄社会における影響力を完全に失います。彼らの家禄は1910年(明治43)まで明治政府が保証したため*生活に困ることはありませんでした。ただし琉球士族のプライドは粉々に砕け散り、頑固党の子孫はすべて日本人になることで士族の伝統は完全に断ち切られることになったのです。(例外は尚家)
現代社会において国際社会における日本の立場は何かを考えると、ズバリ「冷戦に於ける戦勝国*」になります。かつての東西冷戦時には「第二次世界大戦時の敗戦国」の立場でした。1991年(平成3)のソビエト連邦の崩壊によって日本は著しく国際的な立場を変えたのですが、実はオールおきなわの人たちはこの点を絶対に認めようとはしません。
*東西冷戦が西側の勝利で終わったのはヨーロッパの話で、東アジアでは継続中です。ただしこの記事では東アジアでもやがては西側の勝利で冷戦が終わることを前提に論理を展開します。
前回まで長々と1896年(明治29)の公同会運動の背景について説明しました。ブログ主がこの事件に非常に興味を持ったのは、犬猿の仲であった開化党と頑固党が手を組んで政治運動を展開した意味不明さを自分なりに解釈したいという気持ちになったことと、もう1つ当時の頑固党の社会的な立場と、現代のオールおきなわ(とくに旧革新勢力)の立場が驚く程似ていることに気が付いたからです。
社会システムも主義主張も違うので単純に比べるのも無理はあるのですが、それを承知の上で少なくとも下記の2点では頑固党とオールおきなわは共通しています。それは
前回までに公同会運動に至るまでの社会の動きや勢力について説明しました。今回は公同会運動の狙いと、なぜ明治政府によって拒絶されたかを考察します。
公同会は王族を中心とした発起人7人(8人説もあり)で結成された沖縄初の政治結社です。首里に本部を置き、地方にも支部を設置して、会則を定め、総会や委員会の定例会を開くなど、かなり気合の入った団体でした。そして公同会のメンバーは那覇や首里の都市部だけではなく、地方にも遊説して沖縄に特別の自治制度を設置することに対する支持を呼びかけます。
公同会の趣意書を3行でまとめると
前回の記事で、貧困の連鎖は教育によって断つことを記載しました。この発想はブログ主のオリジナルではなく、先日参加したフリースクールの講師が主張された内容で、歴史的に見るとまさにその通りなのです。たとえば琉球王国時代の構造的な貧困問題は、人口の多数を占める百姓階級に就学の機会がなかったことが一因です。
琉球王国、および大日本帝国時代の沖縄県には子供の貧困問題はありませんでした。理由は簡単で
今回は現在何かと話題になっている子どもの貧困について記事にします。この問題に関して平成28年の沖縄振興予算にも10億円が新規計上されていましたので、内閣府および政府としても無視できない案件と考えているのでしょう。他の予算に比べると少額ですが、要望が認可されたという事実は大きいと思います。
ブログ主は教育や貧困問題に対しては門外漢ですが、歴史的に見ると子供の貧困が問題視されるようになったのは、現代が初めてではないでしょうか。琉球王府の時代を振り返ると、一部の上級士族を除いて社会全体が貧困で、そんなこと話題にも上りませんでした。
ここまで1896年(明治29)に元王族が中心となって公同会という政治結社を設立する時代背景について説明しました。予想通りの長い展開になりましたが、この件はやはり調べれば調べるほど複雑怪奇な内容で、現時点のブログ主のレベルではちょっと厳しいかなという状態です。
問題をややこしくしている点は、まず頑固党にも複数の派閥があることです。現在の歴史書に記載されている白頑(頑固党白派)や黒頑(頑固党黒派)や開化党の区分けは、西村捨三(第四代沖縄県知事)や一木喜徳郎氏が提案した分類方法に準拠しているのですが、実際には白派にもまた2つ派閥があって、黒派に近い白派や、明治政府に対して面従腹背で時が来るのを待つ穏便派など、内部で熾烈な派閥争いがあったのです。
1896年(明治29)6月の爵位授与式(男爵)に於いて、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順は、断髪し新調した燕尾服を着用して出席します。実はこの件は、爵位授与の話を聞いた奈良原知事と宮内大臣との計らいで特に断髪をせずに旧礼服のままの参内でもよかったのですが、父尚泰候からの命令で両王子は断髪かつ新礼服で授与式に出席することになります。
この話が琉球士族に広まるや、沖縄県内においても自発的に結髪(カタカシラ)を断髪する人が増えるようになります。そして両王子が名実ともに日本の華族となり、琉球王家の再興は不可能であることを満天下に示す結果となったため、頑固党の人たちは果てしない絶望感を味わうことになります。
1894年(明治27)に勃発した日清戦役は1895年(明治28)4月に日本の勝利で終結します。前回の記事でも記述した通り、当初は頑固党の人々は清国の敗戦を信用しませんでした。ただし翌96年(明治29)1月に、清国(福州)から東京→長崎→鹿児島経由で脱清人の26名が帰国したことで、頑固党の人たちは清国の敗戦の事実を信じない訳にはいかなくなります。
前回の記事で日清戦争の結果によって、開化党と頑固党の確執は頂点に達したと記述しました。理由は開化党の拠点の一つであった琉球新報社が、毎日のように日本軍の快進撃を報じたからです。当然頑固党派新聞報道を信用しません。それどころか新聞のことを紙ハブとあだ名をつけて忌み嫌うようになります。ちなみにその時の様子は下記の抜粋文をご参照ください。
公同会運動について述べる前に、廃藩置県後の沖縄における社会的勢力について説明します。大雑把な分類になりますが、下記をご参照下さい。
今回から1896年(明治29)に旧王族を中心に結成された政治結社「公同会」と、彼等を中心とした自治権獲得運動について連載します。この運動は「公同会事件」として琉球・沖縄の歴史教科書に必ず記載されていますので、ご存じの方は多いかもしれません。ただし事件に至るまでの経緯と、その背景を調べると、実に異質極まりない案件なので、ブログ主が調子に乗って詳しく説明します。
とある Facebook シリーズの投稿に対して思ったことシリーズは前回で終了予定でしたが、本日書き忘れたことがあった件に気が付いたため、恥を忍んでおまけ記事を連載します。
このシリーズの記事を書くにあたって、琉球民族独立総合研究学会(ACSILs)の公式ホームページや、SNS投稿者である親川さんのツイッター等をチラ見しました。学会は発足して数年程度ですので、現時点では試行錯誤の段階かなという印象を受けました。(ただし言語に関しては本気のようです)