先日、孟子〈上〉(岩波文庫)- 小林勝人訳注を読んでいる最中に、ハタとひらめいた一節がありましたので、紹介します。先ずは全文(読み下し文、現代語訳)をご参照ください。
シリーズ
昭和53年10月21日(土)の琉球新報〈金口木舌〉
先日(4月15日)掲載した記事 “非武装、中立あり得ぬ”が予想以上の反響でしたので、今回も昭和53年10月22日の鄧小平副首相(当時)来日関連の史料を掲載します。この件に関する前日(10月21日)の琉球新報の論説が実に興味深い内容です。沖縄タイムスに関してはまだチェックしていないので、機会があれば後日当ブログにてアップする予定です。
非武装、中立あり得ぬ
昭和53年(1978年)10月以降の琉球新報をチェックしたところ、鄧小平副首相訪日(22日)とそれに関する記事が複数掲載されていました。一番興味深いのが11月2日夕刊一面に掲載された廖承志(りょう・しょうし)中日友好協会会長のインタビュー記事です。この記事を読むと中国側のほうが現実感覚に優れ、日本の一部知識人の現実感覚のなさが浮き彫りになっていて、「当時も今も状況はあまり変わっていないな」と思わざるを得ませんでした。
教員は中立犯さない
現在ブログ主は、昭和42年(1967年)における「教公二法関連」の当時の新聞や回顧録等を調べています。沖縄県立図書館(現在郷土資料室のみ利用可)では当時の新聞が閲覧できますし、ブログ主自身でも回顧録等を購入してできる限りの資料集めに奮闘していますが、その中で貴重な証言を見つけましたので今回の記事にて紹介します。
琉球独立論の盲点
前回は当ブログにて現代の琉球独立論の前提が何かおかしいのでは?とのテーマで記事を作成しました。今回は人口から見た独立論の盲点について説明します。キッカケはブログ内の整理整頓を試みるつもりで過去履歴をチェックしていた際に、人口の増加が沖縄社会に及ぼした影響について配信した記事を読み返したことです。早速ですがその時に作成した人口表をご参照ください。
琉球独立論考
先日ブログ主は川瀬俊治著 『琉球独立は可能か』 を購入しました。金城実さんと松島泰勝氏の対談形式で果たして琉球独立が可能かどうかについて考察した著作です。この著書は全八章からなり、実はまだ第八章 (琉球連邦共和国を目指す)は読んでいませんが、面白いことを発見したので先に記事にします。
史料 – ウルマ新報誕生の経緯(島清さんの証言)
今回は、瀬長亀次郎さんの足跡をチェック中に発見、『琉球新報80年史 – 新聞にみる沖縄の世相』の通史篇に記述されていたウルマ新報誕生の経緯を掲載します。それはウルマ新報初代社長島清(しま・きよし 1908~1997)さんの証言で、非常に興味深い内容になっています。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう 最後に
これまで計4回、普天間第二小学校の歴史について調子に乗って説明しました。ここで一つ訂正がありますので、この場を借りて掲載します。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その4
前回まで普天間第二小学校の誕生の経緯と、移転計画が断念した流れについて説明しました。今回は平成22年(2010)1月に産経新聞に掲載された記事について検証します。まず物議を醸した記事をご参照ください(現在リンク先にはアクセスできないため、Web 魚拓等からの全文掲載)。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その3
今回は平成8年(1996)に現敷地での全面改築の経緯について記載します。平成17年(2005)3月に刊行された『普天間第二小学校創立35周年記念誌』には第7代校長の手記が掲載されていますので、該当部分を抜粋しました。ご参照ください。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その2
前回までに普天間第二小学校が誕生した流れを簡単に説明しました。今回からは移転計画の頓挫と、校舎立て替えにいたる経緯について、公開された情報をベースに記述します。
その前に普天間第二小学校PTA新聞(第72号)に、新校舎落成の記事が掲載されていますので全文抜粋します。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その1
去る(平成29年)12月13日に起こった飛行中の米軍へリの部品が普天間第二小学校へ落ちた事件に関連して、ブログ主が普天間第二小学校の歴史を調べてみましたので掲載します。普天間第二小学校の歴史(とくに移転問題)に関しては裏づけなしの噂話が多すぎるので、今回は公開された情報のみで歴史を振り返ります。
普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。
別に「不屈」は瀬長亀次郎さんだけではないお話 その2
今回は昭和40年(1965)10月の琉球漁業が提訴した第二のサンマ裁判における中央巡回裁判所の判決(いわゆる“前田判決”)の歴史的意義について説明します。その前に、琉球政府および司法機関の設立について簡単に述べると、
別に「不屈」は瀬長亀次郎さんだけではないお話
2017年8月12日にドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が公開され、我が沖縄県ではちょっとした亀次郎ブームになっています。瀬長亀次郎さんのキャッチフレーズはご存知の通り「不屈」で、彼はアメリカ軍の占領行政に立ち向かったヒーロー扱いになっています。
たしかに人民党事件で逮捕・投獄されましたし、那覇市長に就任もその後追放され、しかも10年間公民権を剥奪されても志を曲げることはありませんでした。たしかにその点では「不屈」です。だがしかし、瀬長亀次郎さん以外にも米軍の施政に立ち向かった無名の沖縄人(今回は敢えてこの名称を使います)は多数いるわけで、今回はその中から一人前田武行裁判長について取り上げます。
琉球・沖縄における国防意識の変遷
先日、昭和52年(1977)朝日新聞社刊行 『屋良朝苗回顧録』を読んでいるうちに、面白い一節がありしたのでこの場を借りて紹介します。全文を掲載しますのでご参照ください。
「安保」・「基地」 反対を貫く
あるとき、私はアンガー高等弁務官に呼ばれ、私の主張に関して二つのことを聞かれた。一つは「基地反対」が理解できないということであり、もう一つは、「安保反対」とはどういう意味かということだった。