これまで「尚泰候の決断」と題して、真面目な歴史記事を4回に分けて配信しましたが、今回は番外編としてりうきうの王家・王族、そして上級士族の一大特徴である “二重思考” について言及します。
琉球独立論
皇室と沖縄社会とタブー
今月12日ごろ、「沖縄青年同盟」の活動家の訃報ニュースが県内2紙に掲載されていました。彼らが起こしたとされる「国会爆竹事件」など、彼らの活動そのものには「今更どうでもいい」との感しか湧きませんが、沖縄2紙がわざわざ活動家の訃報を、しかも追悼文(沖縄タイムス)まで掲載していた事実には強い興味を覚えました。
二重思考とりうきう独立芸人
前々回の記事「我が沖縄が “独立” できない理由」を公開したところ、予想の斜め上をいく反響がありましたので、今回はりうきう独立芸人の「意識の底にあるもの」について、ブログ主がついうっかり気が付いた点について言及します。
我が沖縄が “独立” できない理由
ここ数日、ツイッターをチェックしていたところ、ブログ主の目を引いた投稿がありました。名護市議として活動中の” りうきう人” さんのつぶやきですが、極めて興味深い点についうっかり気が付きましたので、備忘録として当ブログにてまとめてみました。
日子思想と「そんとん」
前回までアップした二代目聞得大君の記事に関連して、ブログ主は峯間聞得大君(と思わしき)オモロを複数チェックしました。今回は、その過程で改めて気づかされた古りうきうの為政者たちの宗教観の変遷について調子に乗って言及します。
“琉球国民” の考察
ここ数日、ブログ主らしからぬ真面目かつちょっとホラーな記事を掲載してますが、史料作成中たまたま琉球独立に関するじわじわくるツイートを見かけましたので、息抜きがてら調子に乗って言及します。
※「二代目聞得大君の謎 – その3」は次回アップします。
“りうきう民族論” の正体
本日ブログ主はひさびさに首里城公園を散歩しながら “りうきう民族” について思索してみました。Wikipedia によるとりうきう民族は「かつて琉球王国(琉球國)の領域に相当する沖縄県の沖縄諸島と先島諸島、鹿児島県奄美群島に住む人々を、言語、生活習慣、歴史的経緯等から、独自の一民族であると定義した場合の集団である」とあり、あくまで “仮説” として記載されています。
りうきう独立芸人がアフガン政府崩壊から学ぶべき教訓とは
既報ですが、8月15日、アフガニスタンの武装勢力「タリバン」が首都カブールを制圧し、親米政権だったガニ政権(注)は崩壊しました。
(注)ウィキペディアを参照すると、モハンマド・アシュラフ・ガニ―・アフマドザイ(アフガニスタン・イスラム共和国第11代大統領。任期:2014年9月29日から2021年8月15日)とあり、8月15日をもって大統領退任扱いになっています。
民意の反映はりうきうの伝統にあらず
ブログ主は以前から “琉球民族はあくまで仮説である” との立場で記事を配信しています。その主旨は仮説として論じる分には問題ありませんが、民族の実在を前提に論を組み立てると無理が生じてしまうことです。
琉球独立論の前提が崩れ去る日
平成28(2016)年5月にブログ運営を開始して以来、不定期ではありますが “琉球独立” に関する記事を複数発信してきました。改めて当時の記事を読んでみると言い尽くされてる感がありますが、独立論について最近気がついたことがありましたので記事にまとめてみました。
これを堕落と言わずして……
今月18日、県庁前の広場で1万枚のマスクを無料配布して現地を混乱に陥れた会社社長さん(68)についてですが、この案件について公開情報を調べたところ、実に面白いことが分かりました。
民意の証明
ブログ主が先日ツイッターをちら見していた際に、辺野古基地建設の賛否と琉球沖縄独立の賛否のアンケートを実施している投稿を見つけました。
投稿主の経歴に関しては寡聞にして存じませんが、当人は真面目にアンケート活動を行っているように見受けられましたので、現在の琉球独立の問題点についてブログ主もまた真面目に考えて所見を纏めてみました。その前にアンケート結果をシェアしますのでご参照ください。
琉球独立論が抱える致命的な欠陥
以前当ブログにおいて『琉球独立論考』と題して沖縄における独立論の欠点を指摘しました。改めて説明すると、「独立論は歴史において琉球民族が存在したことを前提に理論を組み立てている」ことは仮説と事実の混同であり、先に万人に通用する民族論を確立すべきであるとの記事内容ですが、今回は琉球民族の定義についてもう少し詳しく言及して現在の独立論が致命的な欠陥を抱えていることを説明します。まずは琉球独立運動かりゆしクラブの屋良朝助氏の見解をご参照ください。
琉球王国はなぜ米仏蘭との国際条約に清国の暦法を使用したかの考察
先日、ブログ主は東恩納寛惇著『尚泰候実録』の351㌻(明治11年候36歳)の項目を読んでいたところ、同年10月7日付で在日清国公使の何如璋(か・じょしょう)が寺島宗則外務卿宛てに出した書簡についての記述に目が留まりました。その一部分を抜粋しますので、読者のみなさんぜひご参照ください。
琉球独立論の盲点
前回は当ブログにて現代の琉球独立論の前提が何かおかしいのでは?とのテーマで記事を作成しました。今回は人口から見た独立論の盲点について説明します。キッカケはブログ内の整理整頓を試みるつもりで過去履歴をチェックしていた際に、人口の増加が沖縄社会に及ぼした影響について配信した記事を読み返したことです。早速ですがその時に作成した人口表をご参照ください。