昭和37年(1962年)12月8日、琉球政府主席を指名するために開催された立法院の臨時議会において、琉球・沖縄の歴史に残る大騒動が起きました。大まかに説明すると、主席公選を主張する野党側(社会大衆党、社会党、人民党)が臨時議会における主席指名を阻止するために院外団(革新共闘会議、沖教祖など)を動員、そして彼等の一部(300人ぐらい)が立法院に乱入して与党議員を軟禁し最終的に琉球警察によって排除された事件です。
現代史いろいろ
不発弾の処理と自衛隊
今回も沖縄県と自衛隊に関する話題を提供します。昭和47年(1972年)に復帰した際の問題のひとつに不発弾処理があります。実はアメリカ世の時代(1945~1972)は沖縄戦の結果生じた大量の不発弾はアメリカ軍が処理しましたが、復帰後はアメリカ側が処理業務を断った経緯があります。この案件に関しては沖縄県と政府との交渉の結果、最終的に自衛隊が処理することで決着しました。その時の記事全文を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。
沖縄タイムス”創刊号”
今回は参考までに、昭和23年(1948年)7月1日付の沖縄タイムス創刊号1面の記事を紹介します。旧沖縄新報(大東亜戦争時の一県一紙統合政策によって誕生した新聞社)の社員が中心になり、そして米軍政府の発行許可を得て「沖縄タイムス」は誕生します。そのときの創刊号の記事を見ると、ブログ主からみて極めて興味深かったのが
號問慰軍皇 – 輯特回二㐧
今回は昭和15年(1940年)8月25日付沖縄朝日新聞の記事を紹介します。これは支那事変3周年を記念した特集号で、当時の沖縄社会の様子が写真つきで掲載されている一級の史料です。そのなかに『職場より戦線へ!』と題して沖縄朝日新聞社の社員さんの集合写真が掲載されていました。それと支那戦線で奮闘している兵隊さんたちへのメッセージもあり、ブログ主が全文書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。
56年前の琉球新報の記事から
本日は昭和37年(1962)12月27日付の琉球新報から興味深い記事を見つけましたので紹介します。現代と同じくアメリカ世時代も「歳末助け合い運動」が実施されていて、二千五百㌦の寄付金が集まったニュースが報じられていました。ブログ主が全文を書き写しましたので、早速ですがご参照ください。
(注)当時の1㌦は360円で、それに約4倍すれば現在価格と見做すことができます。
サンフランシスコ講和条約批准に対する瀬長亀次郎氏のコメント
今回は昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ講和条約批准の日における瀬長亀次郎氏のコメントを掲載します。不屈さんこと瀬長亀次郎氏関連の史料をチェックして印象的なのは、威勢の良い発言の場合には決まって何か”ウラ”を感じることです。そして今回の平和条約に対する瀬長さんのコメントや当時の新聞を参照すると面白いことに気が付きました。瀬長さんのコメント全文を書き写しましたので読者の皆さん、是非ご参照ください。
沖縄県民の本質
今回は昭和27(1952)年11月14日付琉球新報に掲載された社説「琉球と現実」について言及します。ブログ主が確認した限りではありますが、ここまで沖縄県民の本質をズバリ指摘した言説はちょっと見当たりません。昭和27年当時とはいえ現代の沖縄県民にも通ずる内容で、当時の言論人のレベルの高さを伺い知ることもできる貴重な史料です。
当ブログ始まって以来のスクープ案件
本日ブログ主は何気に昭和27年(1952年)10月の琉球新報記事をチェックしていたところ、一際目を引く記事を発見しました。当ブログは平成28年(2016年)5月19日に開始して2年以上経過、その間数多の史料を閲覧および記事として配信してきました。その中でも今回発見した記事は最高レベルのスクープであること間違いありません。ブログ主が知る限りでは初めて確認した案件です、読者の皆さん是非ご参照ください。
沖繩の魂未だ死せず
今回は昭和26年(1951年)9月23日付琉球新報の社説を紹介します。当ブログにおいて既に紹介しましたが、同年9月10日付でうるま新報から琉球新報に復元改題後間もない時期に「沖縄の魂未だ死せず」と銘打った社説が掲載されたことにブログ主は感動を覚えました。理由は民族的な意味を含む形で”沖縄”という単語を使用しているからです。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その4
今回は、昭和36年(1961年)9月9日に起った「西原飛行場事件」について言及します。この事件は同年11月号の『月間沖縄』で公にされ、その中で始めて又吉世喜の存在がマスコミに登場しました。そして昭和38年(1963年)3月号の『月間沖縄』と昭和40年(1965年)9月9日付琉球新報特集記事『組織暴力(6)』のなかで同事件の詳細が掲載されていますが、一部記述に食い違いがあります。
差別撤廃させよう
ここ最近ブログ主は昭和43年度(1968年)の新聞記事を精力的にチェックしていますが、その中に気になる記述がありましたので紹介します。同年7月12日付の琉球新報11面で「沖縄他府県人会」の結成に関する内容です。読者のみなさん是非ご参照ください。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その3
今回はひさびさに沖縄ヤクザに関する記事です。昭和40年(1965年)9月4日付「琉球新報7面」に『組織暴力』とのタイトルで計15回の連載企画記事が掲載されていました。警察の”G”資料を元に当時の記者たちが総力をあげて取材した特集記事で、これらの特集を組まざるを得ないほど当時の沖縄社会はアシバーたちが幅を利かせていたことが分ります。これら特集記事の中でブログ主が気になった点をいくつか抜粋しますので、アングラネタ好きの読者の皆さん是非ご参照ください。
とある善良な市民がマスコミデビューしたときの記事を見つけた件
今回は沖縄戦後の新聞をチェックした際に発見した記事について言及します。昭和25年(1950年)10月14日付うるま新報に掲載された「女中殺し」の事件ですが、後に”善良な市民”としてコザ市で名士扱いを受けた人物の名前が記載されています。
*カンパン:沖縄戦後に各地に設置された収容所兼労務宿舎のこと。RTBカンパンは那覇、AJは普天間にあった。
*被害者の名前は黒字で伏せています。
とある沖縄ヤクザ界の大物と思わしき人物の記事を見つけた件
本日『うるま新報』ほか戦時中および戦後の新聞をチェックしている際に、偶然ではありますが興味ある記事を発見しました。本命は「玉城繁政」という人物を調べていたのですが、それとは別に沖縄ヤクザ界における大物と思わしき人物が引き起こした事件についての記述が見つかりました。早速ですが読者のみなさん、是非ご参照ください。
米軍が最も恐れた男ですら恐れたこと
今回はひさびさに”不屈さん”ネタを提供します。昭和38年5月発行の『月間沖縄』の企画で瀬長亀次郎伝が3回にわたって掲載されていますが(現代人物評伝 – 人民党委員長 瀬長亀次郎)、ブログ主はその史料をチェック中に気になる記述を見つけました。ちなみに著者は仲宗根源和氏で戦前から戦後にかけての瀬長氏の経緯を詳しく記述していて、瀬長亀次郎関連の史料のなかでも一級品の内容です。該当部分を抜粋しますので読者のみなさん是非ご参照ください。