前回までに普天間第二小学校が誕生した流れを簡単に説明しました。今回からは移転計画の頓挫と、校舎立て替えにいたる経緯について、公開された情報をベースに記述します。
その前に普天間第二小学校PTA新聞(第72号)に、新校舎落成の記事が掲載されていますので全文抜粋します。
前回までに普天間第二小学校が誕生した流れを簡単に説明しました。今回からは移転計画の頓挫と、校舎立て替えにいたる経緯について、公開された情報をベースに記述します。
その前に普天間第二小学校PTA新聞(第72号)に、新校舎落成の記事が掲載されていますので全文抜粋します。
去る(平成29年)12月13日に起こった飛行中の米軍へリの部品が普天間第二小学校へ落ちた事件に関連して、ブログ主が普天間第二小学校の歴史を調べてみましたので掲載します。普天間第二小学校の歴史(とくに移転問題)に関しては裏づけなしの噂話が多すぎるので、今回は公開された情報のみで歴史を振り返ります。
普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。
今回は昭和40年(1965)10月の琉球漁業が提訴した第二のサンマ裁判における中央巡回裁判所の判決(いわゆる“前田判決”)の歴史的意義について説明します。その前に、琉球政府および司法機関の設立について簡単に述べると、
2017年8月12日にドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が公開され、我が沖縄県ではちょっとした亀次郎ブームになっています。瀬長亀次郎さんのキャッチフレーズはご存知の通り「不屈」で、彼はアメリカ軍の占領行政に立ち向かったヒーロー扱いになっています。
たしかに人民党事件で逮捕・投獄されましたし、那覇市長に就任もその後追放され、しかも10年間公民権を剥奪されても志を曲げることはありませんでした。たしかにその点では「不屈」です。だがしかし、瀬長亀次郎さん以外にも米軍の施政に立ち向かった無名の沖縄人(今回は敢えてこの名称を使います)は多数いるわけで、今回はその中から一人前田武行裁判長について取り上げます。
先日、昭和52年(1977)朝日新聞社刊行 『屋良朝苗回顧録』を読んでいるうちに、面白い一節がありしたのでこの場を借りて紹介します。全文を掲載しますのでご参照ください。
「安保」・「基地」 反対を貫く
あるとき、私はアンガー高等弁務官に呼ばれ、私の主張に関して二つのことを聞かれた。一つは「基地反対」が理解できないということであり、もう一つは、「安保反対」とはどういう意味かということだった。
現代社会において、「若者の○○離れ」という言葉があります。マスメディアが作り出した言葉のようですが、代表的なのが「若者の車離れ」という語句ではないでしょうか。実は古典も当てはまります。昨今に出版された沖縄本を参照すると、明らかに古典の知識が欠けているなと思われる書籍が非常に多いのが気になります。
先の5月22日に組織犯罪処罰法改正案が衆議院で可決されました。その際にネット上で話題になったのが現参議院議員の小西ひろゆき氏の亡命問題です。