当運営ブログは、今年で7年目を迎えましたが、実は近現代の大衆文化(風俗等含む)は積極的に取り上げて来たブログ主が、長年オキナワン・ロックには手を付ける気になりませんでした。
コラム
オキナワンロックの “最期”
すでにご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、沖縄アリーナにて絶賛開催中のFIBAバスケットボール・ワールドカップにおいて、日本代表はグループステージ1次ラウンド(27日)でフィンランド代表相手に大金星をあげました。
オキナワンロックの “黄昏”
すでにご存じのことかと思われますが、本日(25日)からFIBAバスケットボールワールドカップ2023の1次ラウンドが沖縄で開幕します。なお、この大会を契機に沖縄市は琉球ゴールデンキングスの本拠地としての認知度を世界中にアピールする機会を得たわけであり、ブログ主は大会が無事成功することを祈ってやみません。
【高校野球】頂点が見えてきた【沖尚】
今月6日から阪神甲子園球場で第105回全国高等学校野球選手権記念大会(主催:朝日新聞社、日本高等学校野球連盟)が開催され、連日熱戦が展開されていますが、我が沖縄代表として参加中の沖縄尚学は本日(16日)の第一試合にて、長崎県代表の長崎創成館と対戦し、見事5-1で勝利し準々決勝へコマをすすめました。
高校野球はなぜ “改革” できないのか
8月6日から阪神甲子園球場で絶賛開催中の第105回全国高等学校野球選手権記念大会(主催:朝日新聞社、日本高等学校野球連盟)に関して、我が沖縄代表の沖縄尚学は11日の第一試合に三重県代表のいなべ総合と対戦します。
目覚めた “琉球人” の考察
前回の記事 “琉球人と二重思考” の中で、補足として「琉球人」のワードについて言及しました(下記参照)。今回はこの点についてとある名護市議のツイートを参照に、調子に乗って考察しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。
琉球人と二重思考
前回の記事において、喜屋武幸雄さんの証言を元に、アメリカ世時代における琉球住民の「二重思考」について言及しました。今回は、令和05年07月12日、13日付琉球新報に掲載された野村浩也氏の論文「制度的差別を問う ㊤㊦」を元に、現代における「二重思考」について考察します。
二重思考とりうきうの考察
前回の記事 “二重思考とりうきう独立芸人” において、ブログ主は小室直樹著『日本の1984年』を参考に、りうきう独立芸人たちの行動様式を考察しました。その際に言及した「二重思考」が、りうきう・沖縄の歴史を分析するツールとして極めて有用なことに気がついたので、今回は沖縄県民(特に高齢者)が一番突っ込まれたくない部分について調子に乗って言及します。
“立場を踏まえないフラットな議論というものは存在しません” の考察
すでにご存じの読者もいらっしゃるとは思いますが、先月27日、「沖縄慰霊の日 残る遺骨問題」に端を発した米山隆一さんと阿部岳記者の論争について、ブログ主が極めて興味を引いた箇所がありましたので、備忘録として当ブログにまとめてみました。
我が沖縄が “独立” できない理由
ここ数日、ツイッターをチェックしていたところ、ブログ主の目を引いた投稿がありました。名護市議として活動中の” りうきう人” さんのつぶやきですが、極めて興味深い点についうっかり気が付きましたので、備忘録として当ブログにてまとめてみました。
琉球譯讃美歌の考察
前回紹介した「琉球語讃美歌 – 降誕(111)」について、明治41(1908)年12月25付琉球新報1面に発表された原文、および大正4(1915)年の「琉球語讃美歌及箴言」の初版に掲載された同歌をチェックしたところ、前回の記事で紹介したブログ主の意訳に一部誤りがあることが確認できたので、今回改めて考察記事を纏めてみました。
大正時代のうちなーぐちと “しまくぅとぅバカ”
先日アップした記事、「俺が調子に乗って “しまくぅとば” が普及しない理由を見つけた結果」に絡んで、ここ数日ブログ主は所蔵の琉球語関連の史料をチェックしてみたところ、興味深い一節を見つけましたので紹介します。
それは昭和41(1966)年9月に発行された、新垣信一訳「琉球語讃美歌(第五版)」の中の「第六番 降誕(111)」で、訳者は伊波普猷先生、つまり大正時代に使用されていた “うちなーぐち” が掲載されているのです。
俺が調子に乗って “しまくぅとば” が普及しない理由を見つけた結果
今月4日のQAB琉球朝日放送のネットニュース “「しまくとぅば普及推進室」沖縄県庁に新設で看板設置「聞く・話す機会を創出しよう」” によると、沖縄県庁内に「しまくとぅば」の保存・普及に向けて県庁内に専任の部署が新設されました。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その3
(続く)前回の記事において “72返還の怨念” が明治12(1879)年の廃藩置県の歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに説明しました。
ちなみに廃藩置県という歴史的事件を否定的に捉えているのは、復帰前後から現代までのわずか50年程度であり、それまでは大雑把にいって世間では肯定的に認識されています。それはつまり、伊波普猷先生の廃藩置県に対する解釈が絶対的な影響を及ぼしていたわけであり、今回はこの点について言及します。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その2
(続き)前回の記事にて、沖縄の復帰運動における、一部沖縄県民のやり場のない怒りが、明治12(1879)年の廃藩置県に対する歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに言及しました。今回は、この点についての補足説明を加えながら、「琉球処分」という用語がいかにマイナスイメージに染まっていったかを説明します。