コラム

木を見て森を見ず – その2

前回の記事において「新潮45」に寄稿された杉田水脈さんの論文を掲載しました。個人的には全文を読んだかぎりごく当り前のことを淡々と述べた印象ですが、朝日新聞や沖縄二紙、そして立憲民主党などから杉田論文に関して非難の声があがっています。

今回、当ブログにおいて7月25日付朝日新聞の社説と、同日沖縄タイムス〈大弦小弦〉、そして26日の沖縄タイムス社説の全文を掲載します。これら3つの記事を参照したところ、共通して「生産性」という単語に過剰反応している印象があります。たとえば朝日新聞は、「異性のカップルであっても、子どもを産むか産まないかは、個人の選択である。それを『生産性』という観点で評価する感覚にぞっとする。歴史的に少数者を排除してきた優生思想の差別的考えとどこが違うのか。と激しく批判しています。

朝日新聞や沖縄タイムスの記事で気になったのは「生産性」の前後の文章を全く引用していないことです(下記参照)

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木を見て森を見ず – その1

今月18日発売の新潮社発行『新潮45』に掲載された杉田水脈さんの論文(57~60㌻)がどうやら物議をかもしているようです。たとえば25日付きの琉球新報3面には「LGBTカップル生産性ない」の見出しで批判記事が、同日沖縄タイムスの〈大弦小弦〉でも批判的なコラムが掲載されました。

杉田論文に対して批判的な人たちは、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果していいのかどうか。」の部分を重要視して、彼女の人権感覚を疑問視しています。「そもそも人を「生産性」で区分けすること自体が、重大な人権侵害である(大弦小弦)」という論法で杉田さんの人権意識の欠如を非難するケースもありますが、はたしてこの指摘は正しいのでしょうか。

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大陸および台湾の中国人との付き合いについての考察

ここ最近、とあるSNS上で、台湾において我が沖縄のことを「琉球(沖縄)」と表記する旨の書き込みがあり、ちょっとした話題になっていました。ブログ主は中国の専門家ではないため、たとえば巷で唱えられている「中国脅威論」には一線をひいてますが、我が沖縄の隣国として中国大陸や台湾の政権および中国人たちの行動様式は無視することはできません。それゆえ彼らの行動パターンは如何なるものか、いろいろとブログ主なりに調べてみたことがあります。そのなかで今回は個人的に一番しっくりきたエピソードを紹介します。昭和61年(1986年)に刊行された長谷川慶太郎著『さよならアジア』からの抜粋で、読者の皆さんぜひご参照ください。

(中略)私は、1970年の大阪万博のとき、香港の華僑たちにそれこそ「脳天をなぐられた」感じをうけたことがある。それは、かれらが個人として二十五年前の戦争のことを一瞬たりとも忘れていないだけでなく、中国民族として、日本人にくわえられた戦争中の被害を一瞬たりとも忘れていないと思わせる事件を何度か経験したからである。

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差別のカベを破った偉大なる人物

今回は大日本帝国時代における人事についてのお話です。明治12年(1879年)の廃藩置県によって我が沖縄県が誕生しますが、普通町村制に移行が大正10年(1921年)と他府県に比べて遅れた影響か、県庁および各種学校や警察などの主要人事は他府県人の独占状態になってしまいます。このあたりの事情を高嶺朝光著『新聞五十年』を参照すると、

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テーゲーとシムサの実例

以前、当ブログにて”テーゲーとシムサ”についての記事を掲載しました。テーゲーは「いいかげん」、シムサは「これでいいだろう」のニュアンスで、この2つが合体すると、何事も適当に済ませてしまう”悪癖”になります。昭和の沖縄県民あるあるですが、平成の世になってもこの行動様式は散見されます。残念ですが今回実例を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。

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「戦前」の研究 なお未開拓

今回は、7月10日付の沖縄タイムス文化面(18)に掲載された上里隆史(うえざと・たかし)先生の論説を掲載します。戦前(大日本帝国の時代)の研究に未開拓の部分があるのでは、という内容ですが、たしかに現行の琉球・沖縄史は近現代史(ただし沖縄戦を除く)の記述がいまいちな気がしてなりません。ブログ主はその理由として、①経済に対する記述が貧弱であること、②ヤマト(日本)によっていかに差別されたかを強調しすぎなどが原因かと考えています。

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琉球・沖縄における”改名”についてのちょっとした考察

ふとしたきっかけで琉球・沖縄と中国大陸(および台湾)との文化の相違についてブログ主なりにあれこれ調べてみたところ、一番わかりやすい”違い”は”名前(姓名)”であることに気が付きました。よく考えてみると我が琉球・沖縄は権力者間(たとえば尚家と中華の皇帝)で長きに渡る付き合いがあり、アメリカ世の時代は台湾との交流も盛んでした。にもかかわらず民間の文化や民族に中国的なセンスが浸透しているとは思えない節があります。

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今帰仁城跡の崩れた石垣を見にいった件

先日(7月9日)ブログ主はひさしぶりに今帰仁村の「今帰仁城跡」を訪れました。7月上旬の台風7号による大雨の影響で一部石垣が崩落したニュースに接したのがきっかけです。実際に石垣の崩れ具合をみると、新聞などで報じられている以上の深刻な状況でした。せっかく現場を訪れたので(石垣が崩落した)様子を撮影してきました。読者の皆さん是非ご参照ください。

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昭和のにーけーやー(二階建て住宅)を見つけたお話

先日(7月7日)ブログ主は所用で首里崎山町にある瑞泉酒造ギャラリーを訪れました。道路を挟んで向い側に駐車場がありますが、そこで偶然ですが昭和の沖縄における典型的なにーけーやー(二階建て住宅)を見つけましたので当ブログにてアップします。ブログ主が知っているかぎり、復帰前後に建築された(と思われる)コンクリ造りの2階建て住宅が現存している箇所は数少なくなりましたので、ラッキーと思いながら写真撮影した次第であります。

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うちなー高齢者あるあるを調子に乗って列挙してみた件

今回は軽い気持ちで、平成30年度版“うちなー高齢者あるある”を書き綴ってみました。ちなみに昭和25年(1950年)前後の第一次ベビーブームに生れた世代(つまり70代後半)を念頭においています。実際にどれだけあてはまるか、よろしければ読者の皆さん是非ご検討ください。

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ひさびさに公の場に姿を見せたお話

本日(6月22日)19時から嘉手納町商工業研修等施設において“沖縄県横断キャラバン世直し庶民の会”が開催されるとの情報を得ていたブログ主、せっかくの機会なのでひさびさに公の場に姿を見せることにしました。我那覇真子さん等の活動については事前にある程度情報を得ていたので、どのようなお話をされるかおよその予測はついていましたが、実際に同月17日に浦添市における彼女たちのポスティング活動の様子を(影ながら)観察をして、そのときの雰囲気がよかったのを目の当たりにしたのが決め手になりました。早速ですが会合参加のレポートを掲載します。読者のみなさん是非ご参照ください。(今回の記事は主催者の許可を得て記事を掲載します)

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【地元散策】宜野湾市喜友名(きゆな)の石獅子群巡りをしてきたお話

先日(6月18日)、唐突ではありますがブログ主は我が宜野湾市喜友名にある石獅子群をチェックしようと思い立ち、今回はそのときの散策記事を掲載します。

ちなみに平成27年(2015)に喜友名区自治会から発行された地元史『喜友名誌 ちゅんなー』によると、これら石獅子は「村落獅子」に分類、喜友名集落が碁盤型集落になったのは1737年以降のためおそらく18世紀ごろに作られたのではと記載があります。喜友名の石獅子に関する詳細な説明は後日史料として当ブログで掲載しますので、今回は先に7対のシーサーめぐりの記事をアップします。地元史好きの読者のみなさん、是非ご参照ください。

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琉球・沖縄の歴史における社会階層の変遷を図解してみた

先日Hatena Blog(はてなブログ)にて”それ、僕が図解します。“というタイトルの面白いブログを発見しました。2018年5月23日付けの記事『日本大学アメリカンフットボール部はいつどのタイミングで誤ればよかったのか?』の図解まとめが実に秀逸で、それに触発されて今回ブログ主が調子に乗って琉球・沖縄の歴史における社会階層の変遷を図解してみました。現時点での仮説ではありますが、読者の皆さん是非ご参照ください。

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廃藩置県が沖縄社会にもたらしたもの

残念ながらいつのころか忘れてしまったのですが、とある新聞に「琉球処分が沖縄にもたらしたものはなにもない」と断言された投稿を読んだことがあります。はたして本当に何も無いのか?違和感を覚えつつ今日にいたるのですが、では実際に明治12年(1879)の廃藩置県が我が沖縄社会どのような影響を与えたかを考察してみます。

明治5年(1872)に時の明治天皇によって琉球国王尚泰は琉球藩に封じられます。そしてすったもんだのあげく明治12年の廃藩置県に至るのですが、その間の経緯説明は(今回は)割愛します。その詳細は喜舎場朝賢著『琉球見聞録』が最高の史料ですので、読者の皆さん是非ご参照ください。廃藩置県の結果、琉球藩は廃止され沖縄県が設置されるのですが、その後沖縄社会は漸進的ではありますが政治、社会および風俗文化の改革が行われます。その成果を振り返り、現代社会に影響を与えたものとして、

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