今回はちょっと意地悪いお話をします。我が沖縄において人口に膾炙した言葉に”命どぅ宝”があります。この語句は特に米軍基地反対運動などの反戦平和活動の分野で利用されますが、文字通り解釈すると「(なにはさておき)命こそ宝」になりましょうか。
ちなみにこの価値観を身をもって実践した人物が尚泰候(1843~1902)です。その一例を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
今回はちょっと意地悪いお話をします。我が沖縄において人口に膾炙した言葉に”命どぅ宝”があります。この語句は特に米軍基地反対運動などの反戦平和活動の分野で利用されますが、文字通り解釈すると「(なにはさておき)命こそ宝」になりましょうか。
ちなみにこの価値観を身をもって実践した人物が尚泰候(1843~1902)です。その一例を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
今回は50年前(昭和45年)にタイムスリップしたと仮定して、当時の琉球住民たちに「50年後はこうなっている」と説明しても信じてくれない出来事で打線を組んでみました。
当然ブログ主は当時を体験していませんが、その前後の新聞その他史料については数多く参照してきましたので、その情報を元に記事を作成しました。ちなみに50年前は復帰2年前ですので沖縄県民ではなく “琉球住民” の表記を利用しています。読者のみなさん是非ご参照ください。
先日、沖縄県立図書館にて昭和11(1936)年の新聞切り抜き集をチェックしていたところ、『綠蔭閑話』と題した又吉康和さんの論説を3話見つけました。その中で義村按司朝明について言及した箇所があり、当時疲弊の極みにあった東風平間切(旧東風平町、現八重瀬町)の建て直しに彼が尽力したエピソードが記載されています。
ブログ主の注意を引いたのは東風平間切の疲弊ぶりで、その箇所を抜粋すると、
先日、沖縄県立図書館で明治時代の琉球新報をチェックしていた時に、三遊郭(辻、仲島、渡地)の赤札娼妓についての記事が目に留まりました。”赤札娼妓”とは”性病持ち”を意味し、当時は若狭町に設置されていた若狭病院で定期的に検査が行われていました。
本日ブログ主は那覇市辻地区を散策してきました。実は前にも同地区はチェックしたのですが、どうしても気になる点があったので、過去のゼンリンの地図などを参照して本日再度訪れた次第であります。
結論を申し上げると、現在の辻地区はかつての華々しさは感じられず、街全体に”黄昏”を感じざるを得ません。ブログ主が撮影した辻町の現状を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
以前”【暫定】大日本帝国が沖縄に対して行った残虐非道な所業で打線を組んでみた”と題した記事を掲載したところ、予想の斜め上を行くアクセス数がありました。2番煎じになりますが、今回は沖縄戦以降のアメリカ世から復帰後の施政権者(米国民政府、琉球政府および日本政府)が我が沖縄に対して行った悪行について打線を組んでみました。
以前、ツイッターをチェックしている際に、11月13日付の沖縄タイムス社の阿部岳記者のツイートが目に留まりましたので全文を書き写します。
”尊敬する歴史家から「為政者の悪行は石碑に刻んで、100年、200年後の子どもたちに伝えるべきだ」という話を聞いた。”
この尊敬する歴史家が誰か記載はありませんが、ここはひとつブログ主が『球陽』を参照に為政者の悪行を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
先月30日から本日にかけてブログ主は沖縄市上地(なかのまち)や中央(パークアベニューや一番街など)を所用を兼ねて散策しました。前日は”帯広豚丼炭火焼とんたん”のグルメレポートを掲載しましたが、今回は街中散策レポートを紹介します。
改めて実感したのですが、沖縄市中央地区の”じわじわくる”ポイントの多さにはびっくりします。その中からブログ主が厳選?した見所をまとめてみましたので読者のみなさん是非ご参照ください。
今回も(自称)名誉若狭民であるブログ主が旭ヶ丘公園などに設置されている”石碑”について記事をまとめてみました。若狭地区の散策で始めてわかったのですが、旭ヶ丘公園付近は沖縄を代表する”石碑のメッカ”です。本来ならじっくり時間をかけてひとつひとつ紹介したいところですが、限られた時間内なので主な石碑のみ撮影してきました。読者のみなさん是非ご参照ください。
今回は那覇市若狭(わかさ)の散策結果を紹介します。旧那覇からの由緒ある地名にも関わらず”存在感の薄さ”が際立つ若狭地区ですが、その理由はやはり”波の上”の圧倒的知名度にあります。
たとえば沖縄県民なら”波の上神宮”をよく知っていますが、その所在地が”那覇市若狭一丁目”であることを知る人は少ないはずです。”波の上ビーチ”も同様で”若狭海浜公園”の中にあります。那覇市民であればご存知かもしれませんが、典型的な宜野湾民であるブログ主にとっては、
今回はちょっと趣向を変えて、ブログ主独断で尚王家の悪行で打線を作成してみました。
昔、琉球王国時代のぐう畜エピソードで打線を組んだことありますが、王家限定でもハイレベルの悪行が確認できます。上位打線が鬼畜レベルで草も生えませんが、いまから紹介するエピソードは紛れもない史実です。今回は解説はなしで淡々と事例のみ紹介しますので、読者の皆さんぜひご参照ください。もちろん異論は認めます。
今回は史跡めぐりの一環で那覇市久米を散策したところ、予想の斜め上をいく”じわじわくる”ポイントが複数見つかりましたので、ためしに記事にまとめてみました。
ちなみに旧久米村は以前は唐栄(閩人=福州出身の中国人)たちの居住地で、廃藩置県後に那覇に合併された歴史があります。琉球・沖縄においては古い歴史を持つ地区であり、いまでもその痕跡は残されています。読者のみなさん、ぜひご参照ください。
令和元(2019)年10月31日の首里城正殿および関連7棟の火災がキッカケで、ブログ主も改めて首里城関連の史料をいろいろチェックしようと思い立ちました。実は建築に関しては素人(プラスあまり興味がない)であることと、首里城に関しては語り尽され感があったので当ブログでもほとんど取り上げていませんが、今回改めて調べてみること思わぬことに気がつきましたので早速ですが纏めてみました。
首里城正殿は令和の火災を含めると5回焼失しています。1回目から3回目までは『球陽』の記載をまとめると、
前回の記事で”万国津梁の碑文”についてブログ主なりに説明しました。今回はなぜ尚泰久王が仏教に”ハマったか”について考察します。
ちなみに尚泰久王は明暦景泰5年(1454年)、46歳の時に即位して、1460年に亡くなっています。その間に建立した寺院の一覧は下記参照ください。
今回はちょっとまじめに”万国津梁の鐘の碑文”について言及します。あくまでも現時点における”仮説”ですが、『球陽』と碑文を照らし合わせてみると興味深いことに気がつきましたのでまとめてみました。
その前にこの碑文について言及すると、我が沖縄においてはあまりにも有名な一節