先日(2月20日)、ブログ主は那覇市の沖縄セルラースタジアムで行われている読売ジャイアンツの一軍キャンプを見学してきました。ブログ主は2011年に初めて巨人軍が2次キャンプを行ったときに見にいったことがありますが(そのときは韓国のプロチームとの練習試合)、よく考えるとそれ以来のキャンプ見学になります。今回見学を思い立った理由の一つが我が沖縄に縁がある選手が1軍キャンプに帯同して、その選手を一度見たかったからです。
散策ネタ
元日企画 俺が調子に乗って宜野湾市を一周して写真を撮影した件
当ブログにおける前年度(平成29年)の元日企画は国際通りのグルメスポットの散策記事でした。今年はもう少し本気度を上げて、嘉数高台公園を基点に徒歩で普天間神宮に移動・参拝、そして嘉数高台に戻ってくる特別企画を掲載します。ちなみに Google マップでルート散策したところ合計14.9㌔の移動になりますが、ただし途中寄り道をしていますので実際の移動距離はもう少し長くなるかと思われます。早速ですが読者の皆さん、宜野湾一周のレポートをご参照ください。
真栄原2丁目(旧真栄原社交街)に行ってきたよ 続編
唐突な感じもしますが、散歩企画として真栄原2丁目(旧真栄原社交街)の現在の様子を再アップします。キッカケは以前掲載した真栄原社交街の記事のアクセス数がここ数日激増しているため、ここは調子に乗らざるを得なくなりブログ主は夕暮れ→夜間の街並みを散策してきました。
今回は下図を参考に ① から ⑩ の順番で現在の様子を撮影して来ました。廃墟好きの読者の皆様、是非ご参照ください。
翁長助静氏の足跡を訪ねて~魂魄の塔
先日、沖縄タイムス社編『私の戦後史 第5集』に掲載されている翁長助静氏(1907~1983)の章を参照中、意外な記述を発見しました。それは糸満市米須にある「魂魄の塔」のネーミングは助静さんが提案したとの内容です。ひめゆりの塔、健児の塔、そして魂魄の塔は当時(昭和21年)、糸満市米須に一時収容されていた真和志村民の手によって遺骨収集およびこれらの碑が建立されたのは有名ですが、だれがネーミングを提案したか今回初めて知って驚きました。よろしければ下記をご参照ください。
*現沖縄県知事の翁長雄志氏は助静氏の三男です。
沖縄市照屋1丁目(旧照屋黒人街跡)に行ってきたよ
前回の記事で沖縄市のゲート通りおよび中央パークアベニューの散策レポートを掲載しましたが、今回は旧照屋黒人街(現在の沖縄市照屋1丁目の銀天街付近)の画像をアップします。琉球新報社編『ことばに見る沖縄戦後史』によると、「数年前(1965年前後)まで黒人兵が一晩に4~5百人も出入りしていたが」と記載がありますが、現在では当時の面影を見つけることすら難しい廃墟になっていました。当然黒人さんや韓国人女性の特殊婦人は見当たりません。では今回も調子に乗って突撃レポートを掲載します。
検証・夜のコザは本当に危険地帯か?
以前に「SNS 香ばしすぎるブログを発見した件」を掲載した際に、当然ながら「夜のコザは本当に危険地帯か?」との疑問が湧いてきましたので、実際にブログ主が当地へ赴いて検証してきました。例の香ばしいブログには「コザ」とのみ記載があって、具体的な地名はありません。そのため今回ブログ主が「ゲート通り」「旧センター通り(中央パークアベニュー)」と中心に徒手空拳にて突撃取材してきました。是非ご参照ください。
なお旧照屋黒人街(現在の銀天街)は現地取材していきましたが、すっかりさびれていたので今回は割愛します。八重島も同様の理由で掲載しません。旧吉原社交街は後日改めて取材します。
真栄原2丁目(旧真栄原社交街)に行ってきたよ
唐突な感じもしますが、散歩企画として真栄原2丁目(旧真栄原社交街)の現在の様子をアップします。キッカケは佐野眞一さんの『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史(上)』を読んで、懐かしさの余り現在廃墟と化した社交街を散策してみようと思いついたことです。
真栄原社交街の歴史は機会があれば後日紹介するとして、この街は「新町」の名称で有名でした。昔はバス停も「新町入り口」でしたが、現在は「第二真栄原」になっていて、「真栄原社交街」の看板も撤去されています。ではブログ主が撮影した現在の真栄原2丁目をアップします。