中継監獄というのは、ソ連独特の監獄でおそらく他の國にはその例がないと思う。余りにも多くの囚人を持っている國だからその必要があるのだと思うが、苦しい中にも考え様によっては一番ソ連らしい味のある面白い所である。
史料
ソ連の裏と表 ⑻ – 取調べは役人まかせ – 一片のパンに千秋の思い
(八)大豆の一粒 ソ連の監獄の食事は、朝黒パン五百五十グラム(両の手で丁度握れる位の大きさ)と砂糖九グラム(角砂糖一個コ位)が各人に渡され、白湯が監房内に運び込まれる。規定では七五グラムの雑穀と二百グラムの野菜が与えられることになっているが、昼と夜に配ばられる湯のみ一杯位のスープの中には、わずかに雑穀のトギ汁みたいなあとが見られるのと青いキャベツの漬物が時たま浮いている程度のものである。
ソ連の裏と表 ⑺ – 不思議な監房の解放感 – 自分の煙草を吸って他人に礼をいう
ソ連には監獄の種類が三つある。普通の都市には二種の監獄が必ずある。内務省の監獄と保安省の監獄がそれである。もう一つは原語でペレスイルナヤ、チユルマという。通訳はないが私達はそれを中継監獄と呼んでいた。これは各都市にはないが大きな都市で交通の便のよい所におかれてある。幸か不幸か私は拘留間に各所とも十分しみじみとその情緒を味う機会があった。ソ連の監獄についてわずかな紙面ですべてを言いつくすことは出来ない。
ソ連の裏と表 ⑹ – 廣き門は”監獄” – お互にコワイ・政治的警戒心
(六)広き門 ソ連の憲法では一応保証があって、裁判は民事、刑事訴訟法に従って成立することになっている。検事は任命で判事は選挙である。特に変っている様に思われるのは、特別裁判と呼ぶ欠席書類裁判のあることである。これがクセモノで國家的重罪犯はこの特別裁判に付する事を得る、となっているが、実際には重罪と思われる事件は現地で即決し、証拠不十分で折角逮捕した者を釈放するのは惜しいと思う時は、勝手に都合のよい調書を作り上げてモスコーの特別裁判に回す。
ソ連の裏と表 ⑸ – 形ばかりの交戰の犠牲としては – 余りにも不当な戦犯
(五)戦犯 裁判が公正に行われるか、どうかということは、その國において人権がいかなる程度に尊重されているかという端的な証左となる。私が戰犯の名の下に二十五年の懲役の宣告を受け、囚人としてソ連に強制抑留されていたのだが、どのようにして戰犯は作られたか、先ず私自身の場合から話してみよう。
ソ連の裏と表 ⑷ – 全能の共產党に盲從 – 皮肉な声”一切の自由から解放された”
(四)【自由からの解放】 ソ連は一九三六年発布のスターリン憲法で市民に、出版、言論、集会、結社、信仰の自由を保証する旨明示してある。ところが実際にソ連の市民はそれだけの自由を享有しているのだろうか? 私の見たところでは、おそらくソ連ほど不自由な國はないと思われる。
ソ連の裏と表 ⑶ – きりつめた市民生活 – 肉や砂糖はめったにない
(三)【市民生活】 終戰直後のソ連の疲弊状態は、非常にはなはだしかった。一九四五年入ソ当時、私はこれが戰勝國なのだろうか、と驚く反面よくこれまで我慢して戰ったものだ、と感心したものだった。衣食住ともに極度に不足している狀態だったから、満洲にある日本人の財産は何でも欲しがった。目に見えるもの、手にふれるものは、すべて彼等にとってはめずらしい貴重なものであった。
ソ連の裏と表 ⑵ – 陰の声…第二の農奴制 – 極右と極左は同じ結末
(二)ソ連とは ソ連 – 正しくはソビエット社会主義共和國連邦ということである。ロシア共和國、ウクライナ共和國、白ロシア共和國、ウズベック共和國、カザフ共和國、グルジャ共和國、アゼルバイジャン共和國、リトワニア共和國、モルダビア共和國、ラトビア共和國、キルギース共和國、タジック共和國、トルコメン共和國、アルメニア共和國、エストニア共和國、及びカルロヒン共和國の十六ヶ国からなる連邦である。
ソ連の裏と表 ⑴ – 背筋を走る恐怖の追憶 平和と自由のために綴る
【まえがき】 顧みれば、昭和十六年三月歓呼の声や旗の波に送られて、那覇埠頭を船出して以来、戦争、敗戦そしてソ連に抑留という運命に身をまかせて、不思議にも生還を得て再びなつかしい故郷の土を踏むことの出来た今日迄足かけ十七年になります。
久高島印象記 (4)- 又吉康和
三 結婚 日本全國には結婚に關する奇習が多からうが、我が久高島も亦その一つであらう。先づ婚約は男女幼い時兩方の親の勝手極めて置く、子供達の心中は始めから眼中にない。これから旣に現代離れして居る。
華麗な郷土博物館 – 戦前の首里城北殿のお話
昭和11(1936)年6月の新聞切り抜き集をチェックしている際に、偶然ですが首里城関連の記事を見つけました。首里城正殿が沖縄神社の拝殿として利用されたのはよく知られていますが、北殿が郷土博物館として改修されていた事実は初めて知りました。
久高島印象記 (3)- 又吉康和
一 われ等は神祕の探し出す心持で此の憧憬の島に上陸した。此の島の住民は誰でもアマミキヨが島を造、白樽が開祖だと信じて居る。交通不便の爲め古い風俗習慣が古の儘遺されてゐる。彼れ等は太陽は東の海より出て、西の丘の彼方に沒するものだと信じ、雨は龍が雲を集めて降らすものと信じて居る。草も木も神に依つて生じ、人間も犬も猫も神の使であると信じて居る。そこにはコロンブスの亞米利加發見もなく、ニユウトンの引力もなく、ダーウヰン進化論もない。地上の幸、不幸は總て神の喜怒哀樂に依つて支配されて居るものと信じて居る。
久高島印象記 (2)- 又吉康和
三 白樽一男二女を擧げた。長女於戸兼樽(オトカネタル)は祝女の職に任ぜられ山嶽の祝祭を司つた。長男眞仁牛(マニウシ?)は父の家統を繼ぎ、其の子孫繁昌した。(外間根人は其の後裔である)二女思樽(ウミタル)は巫女になつたが後玉城間切の巫女に擧げられて、城内に居た。其の天姿の艶麗と貞操律儀堅く、物腰の端正なること常人の及ぶ所でなかつたので急ち評判となり終には國王に召され宮中に入り其の寵愛を受けた。
久高島印象記 (1)- 又吉康和
一 それは各間切に諸按司が城を築き、石垣を高くして兵火の絕えない昔のことであつた。玉城間切は百名村(今の玉城村字百名)に白樽と云ふ一人の若い男が居た。此の男は性質温厚篤実で、從つて親に孝友と交つて信、常に自分の良心に從つて惡を斥け善事を爲した爲め、間切内の人氣者であつた。それで領主玉城按司のお目がねに叶ひ、若按司鬼武能の姫の婿に選ばれて目出度夫婦となつた。白樽は世の幸福を一身に集めた故に、他若者達から羨望の的となつた。
彽徊趣味断片 – 此一篇を末原實一郎氏に捧ぐ –
今回は大正13(1924)年4月発行の『沖縄教育』から「彽徊趣味断片」と題した随筆を紹介します。筆者は当時編集長を務めていた又吉康和さんで、往年の首里郊外の景観が美しい文章で紹介されています。
原文はすこし読みにくいところがあったので、思い切ってブログ主が旧漢字を訂正しました。プラス”其の”や”尙ほ”などの現代では使わない用語もひらがなに変換することで原文のよさを損なうことなく、現代人にも読みやすい文章に編集しました。音読することをお勧めします。大正時代の知識人のレベルの高さを実感しつつ、当時の首里郊外の情景が目に浮かんでくる名文です。読者の皆さんぜひご参照ください。