史料

芋の葉露(田舎生活)- その4

(四) 膳皿の類は田舎屋にても上等の部に属する所は一通りの設備あり。されどこれ十中一二を数ふる位ひなり。茶飲茶抔は支那製の随分高価(ふも十個一円位ひに過ぎず)のものを所持する向もあれども茶盆は正七月市の出来合ひものにて誠に釣はぬもの多し。

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芋の葉露(田舎生活)- その3

(三)穴屋の構造は大略前回に述べたるが如し。田舎にて□家屋と云へば先づ穴屋が普通にて瓦家及びヌキ屋は余程贅沢なる家屋なり。而して瓦屋は旧藩の時代に於ては禁制なりし故田舎にては番所(今の役場)の外に瓦の屋根を見ざりしが、近来は財産家争ふて瓦屋を造るに至り島尻中頭には瓦屋は恐らくヌキ屋より多きに至りたるならん。斯く瓦屋が流行するも間取り又は構造に数寄を凝したるものとては一軒もなくこれ又版に押したるが如くヌキ屋と同様なる構へなり。多くはヌキ屋の組建てに瓦を乗せたるに過ぎざるなり。

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芋の葉露(田舎生活)- その2

(弐)那覇より半程も踏み出せば忽ち村落的の趣味を感ずるなり。本県の村落は他府県とは趣きを異にし、所謂地人(純粋の百姓)は多きは七八百戸、少なきも四五十戸一団となり殆んど町の体裁を形成せり。ただ居住人と称する那覇首里等より寄宿したる一種の農民は耕作の便宜を逐(お)ふてその住居を定むる故処々に散在せり。この有様は那覇近在より遠く国頭に至るまで少しも異なる所なし。

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芋の葉露(田舎生活)- その1

(壱)三百年来人の生血を見たることなき人民に曾て戦乱抔(など)の恐るべきを知らず恐るべきものはただ飢饉のみ。或(ある)老農畑の側なる小松原に腰をかけ煙草を吹かしつつ余に語りて曰く、手前共に米も二十俵位は作り砂糖も十四五挺は作り、その他麦も豆も少しづつ作り候へども、一番大切のものは其処一面に蔓これる芋にて候。

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久高島印象記 – まとめページ

今回は読者の便宜を図る上で、『沖繩敎育』(大正13年6月、9月、12月)の3号にわたって掲載された又吉康和著『久高島印象記』のまとめページを作成しました。同年6月8日に実際に久高島を訪れた際の訪問記ですが、当時の島の様子を伺える第一級の史料と言えます。

ちなみにこの印象記を読んだブログ主の感想は、伝統主義(現在の社会的な慣習は “これまで続いてきた” という理由だけで正しいと考える行動様式のこと)の束縛の強さです。そして興味深いのがこの一節で

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久高島印象記 (5)- 又吉康和

一 久高島に印象の一番深いものは地割制度であつた。明治三十二年法律第五十九號を以て沖繩縣土地整理法が施行された、で同第二條に依り縣下各村の持地人(百姓)は最終の地割替に依り各自其の割當てられた土地の所有權を完全に獲得したわけである。然るに獨り我が久高島と渡名喜島の百姓等は地割地を從來の通り持地人の共有としたのである。其の爲め各町村では何處でも私有財產として土地を所有して居るにも拘わらず久高島では土地が共有である。

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令和2年に首里城公園を訪れたお話 – その1

今回は令和2(2020)年1月2日および3日に首里城公園で行われたイベントを観戦したまとめ記事を掲載します。現時点の公園内開放エリアおよびイベントを見学してきましたが、よくよく考えると去年の火災事故以来初めて訪れたことになります。

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ソ連の裏と表

令和2(2020)年元日から当ブログらしくいきなりエグい記事を提供します。昭和32(1957)年4月29日から沖縄タイムス夕刊に計15回掲載された金城五郎著『ソ連の裏と表』の全文をアップしました。

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ソ連の裏と表 (終) – 國民は騙され通し – お得意は資本主義誹謗

むすび 今から四十年前、新しく出発したソビエト革命政府は、搾取のない社会を約束し、「この國は働く人達の國です。だから國の主人はあなた方労働者と庶民です」と呼びかけた。当時おくれた農業國として農奴制の名残りを多分に留め、資本主義の社会すら発展の段階になかったロシアの農民達は、有頂天になった。

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ソ連の裏と表 ⒁ – 作業が惡いと減食 – ロシア人は塩漬魚が好物

収容所と作業場との囚人の送り迎えは大変である。囚人は収容所の門内で員数を数回確かめられて後、一人ずつ囚人カードに依って姓名年齢、条項、刑期、を答えると、門外で護送の部隊にカードと共に引渡される。受取った兵隊は更に員数を点検して異状がなかったら所長の差出す受領にサインをして作業場へ前進をはじめる。周囲には自動短銃を構えた兵隊達が警備に当り、後尾からは軍犬もお伴をする。

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ソ連の裏と表 ⑿ – 政治犯は特殊収容所 – 昔は人も住まぬ大雪原

地の果て 政治犯を収容する特殊収容所は特に厳重に社会と隔離するため、都市や農村の近くを避け、僻地、極地に置かれている。私は四九年の春、インター地区の特殊収容所に送られた。ハバロフスク監獄以来二ヵ月の護送間、たった一人の同行者だった野口君と別れて私は労働適として地区の第一作業分所に送られた。インター地区はウラル山脈を西に超えてキーロフから北上したベチョラ河の下流にあって北緯六十八度の北極圏内にある。

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ソ連の裏と表 ⑾ – 强制労働所

ソ連の裁判の判決は、特定の禁固刑を除いては、「強制労働所に何年の収容」という刑期を科すのが懲役である。もっとも、原語では矯正労働所という言葉を使っているが、矢張り強制労働所という方がその内容を説明する適訳のようである。

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ソ連の裏と表 ⑽ – 走り続ける囚人列車 – 終着駅は墓場あるのみ

(十)南京虫のいる御殿 中継監獄は他の監獄よりは食物が若干よくなる。ここでも話は食物の事が主で夫々自分の行って来た監獄の食事のよしあしを比較し、次の行先を楽しみ(?)に語り乍ら日を送る。囚人に対して行く先は絶対に言わないが自分の行く先については囚人特有の感覚で感じ取る。

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