大日本帝国の時代(史料)

久高島印象記 (2)- 又吉康和

 白樽一男二女を擧げた。長女於戸兼樽(オトカネタル)は女の職に任ぜられ山嶽の祭を司つた。長男眞仁牛(マニウシ?)は父の家統を繼ぎ、其の子孫繁昌した。(外間根人は其の後裔である)二女思樽(ウミタル)は巫女になつたが後玉城間切の巫女に擧げられて、城内に居た。其の天姿の艶麗と貞操律儀堅く、物腰の端正なること常人の及ぶ所でなかつたのでち評判となり終には國王に召され宮中に入り其の寵愛を受けた。

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久高島印象記 (1)- 又吉康和

 それは各間切に諸按司が城を築き、石垣を高くして兵火のえない昔のことであつた。玉城間切は百名村(今の玉城村字百名)に白樽と云ふ一人の若い男が居た。此の男は性質温厚篤実で、從つて親に孝友と交つて信、常に自分の良心に從つて惡を斥け善事を爲した爲め、間切内の人氣者であつた。それで領主玉城按司のお目がねに叶ひ、若按司鬼武能の姫の婿に選ばれて目出度夫婦となつた。白樽は世の幸を一身に集めた故に、他若者達から羨望の的となつた。

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彽徊趣味断片 – 此一篇を末原實一郎氏に捧ぐ –

今回は大正13(1924)年4月発行の『沖縄教育』から「彽徊趣味断片」と題した随筆を紹介します。筆者は当時編集長を務めていた又吉康和さんで、往年の首里郊外の景観が美しい文章で紹介されています。

原文はすこし読みにくいところがあったので、思い切ってブログ主が旧漢字を訂正しました。プラス”其の”や”尙ほ”などの現代では使わない用語もひらがなに変換することで原文のよさを損なうことなく、現代人にも読みやすい文章に編集しました。音読することをお勧めします。大正時代の知識人のレベルの高さを実感しつつ、当時の首里郊外の情景が目に浮かんでくる名文です。読者の皆さんぜひご参照ください。

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怪談奇聞(一)娼妓の亡霊に頼まれる

今回から不定期ではありますが、夏の風物詩である怪談を複数紹介します。大正元年8月の琉球新報を参照したところ、「怪談奇聞」と題して読者から応募した怪談が30話ほど掲載されていました。非常に興味深い内容だったので、その中の一部をコピーして原文をチェックしたうえでブログ主で句読点を追加した分を公開します。読者の皆様、是非ご参照ください。

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砂糖取引の改良を望む

今回は明治34年1月11日付琉球新報2面に掲載された論説を公開します。ブログ主はこの論説の存在を「琉球新報は何事を為したる乎」で初めて知りましたが、実際にチェックすると琉球国から明治にかけての糖業の致命的欠陥を伺うことができる第一級の史料であると確信しました。その欠陥とは流通ルートを薩摩人(あるいは鹿児島県人)の糖商に牛耳られてしまったため、黒糖の買い手が圧倒的に有利であったことです。

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寄奈良原男爵書

今回は明治33(1900)年9月17日付琉球新報の無署名記事「寄奈良原男爵書」を紹介します。奈良原繁知事在任中(1892~1908)に掲載された知事評は実に珍しく、しかも論評が極めて冷静かつ的確であり、明治時代のジャーナリストのレベルの高さと社会における言論の自由度を伺える内容となっています。

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琉球新報は何事を為したる乎 – その3

●琉球新報は何事を為したる乎(承前)

◎教育に関しては前項にも述べたる通り、我輩は多く専門家に譲り、只其結果として社会に出現したる弊害に就ては随時酷と思ふ程の批評をなしたること往々これあり。その要点を一二挙ぐれば本県の教育家が外観(ミエ)を張る為めに不相当の設備をなして民力を顧みざりしこと、教育の方法が社会の要求に副はざるもの多きこと、教育家に死法に拘泥して活知識に乏しきもの多き事にして、直言の為めその反目を受けたることまゝありき。然れども諸君我輩は教育に重きを置けばこそ苦言も呈するなれ、我輩が常に教育家に向かって相当の尊敬を払ひ、鄭重の待遇をなすを見ば教育家諸君は当に我輩の微衷を諒察せらるべし。

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琉球新報は何事を為したる乎 – その2

●琉球新報は何事を為したる乎(二)

◎一般教育に関する特別の注文は曾て本紙上に縷陳(るちん=縷述)したるもの多し。然れども差当り切に希望するものは日本国民としてのコンモンセンスの中にも最もコンモン(普通)なる感覚の養成也。此(の)感覚は本県は他府県と大に異なる所あり。而して之を一致せしめざれば感情の融和到底望むべからず。感情融和せずして国民たるの実を全ふせしむることは是れ亦(また)到底期すべからざるの事也。本県に於て国民教育の基礎となるべき知識を注入するは先づ他府県と其感覚を一致せしむるにあり。他府県と一致せざる所の感覚とは大略左の如し。

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琉球新報は何事を為したる乎 – その1

●琉球新報は何事を為したる乎(一)

◎新聞紙が文明の社会に於て重要欠くべからざる一機関たることは世間既に定論あり。我輩が今更喋々するの要なかるべし。然して本県の旧社会が殆んど解体して新社会未だ建設せられず万事草々人々相率ゐて以て暴乱暗黒の谷底に陥らんとする時本紙は時代の要求に応じ特別の使命を帯て生れたり。時は明治二十六年九月十五日、場所は那覇区字西の借屋なりき。

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突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – ツミジュリの情夫狂い

気が付くと当ブログも今回で 600記事の配信となりました。平成28(2016)年5月19日から開始して2年余り、よくぞここまで続けることができたもんだとちょっと自分を褒めつつ、目標の 1000記事配信まで気合を入れて頑張ろうと決意を新たにした次第であります。

今回は600記事配信企画として、明治時代の鬼女のお話を紹介します。明治31(1898)年8月29日から3回にわたって琉球新報にて連載された『ツミジュリの情夫狂い』と題する物語で、現代の”鬼女速”に掲載されているような内容です。ただし現代ではあまり使われない用語が複数ありましたので、ブログ主でいくつか説明すると、

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沖縄のマスメディアが過去に実施した啓蒙活動の一例

以前、当ブログにて”沖縄のマスコミは本当に偏向しているのか”の記事を配信し、その中でマスコミの体質が今も昔も”啓蒙”であることを指摘しました。今回は過去の啓蒙活動の実例を紹介します。

昭和15年(1940年)8月25日付沖縄朝日新聞社の特集号『第二回皇軍慰問号』の中に戦地の兵隊さんに向けての小学生の激励文が掲載されていました。啓蒙活動の一環として未成年を使う辺りは、いまも昔も変わりません。読者の皆さん是非ご参照ください。

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現存する最古の太田朝敷関連の史料

今回は現時点で確認できる最古の太田朝敷先生の史料を紹介します。沖縄県立図書館で公開されている明治27(1894)年12月16日付『琉球新報』の中に “大田朝敷” 名義の署名広告と国頭地方を巡回視察した記事、および日清戦争に関する記事が掲載されてました。平成5(1993)年以降に刊行された『太田朝敷選集(上・中・下巻)』には掲載されていない史料になりますが、それは同記事の発見が2000年以降であったのが理由で、もしかすると今回初めての一般公開になるかもしれません。読者のみなさん、是非ご参照ください。

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突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – 明治編

突っ込まざるを得ない記事シリーズも5回目になりますが、今回は明治時代の琉球新報から選りすぐり?の記事を掲載します。当時の新聞をチェックすると雑報として地域のニュースが報じられていて、これがなかなか面白く不覚にもブログ主ははまってしまいました。その中から無駄に文章がうまく、なおかつツッコミどころ満載の記事を書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。

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最初の遊學生 – 高嶺朝敎翁の談

今回は太田朝敷関連の史料として第一回県費留学生として上京した高嶺朝教氏の談話を掲載します(リンク先写真前列右側の人物)。第一回県費留学生の派遣は我が沖縄の歴史にとって重要な意義を持ちます。理由は彼等が琉球・沖縄の歴史上で初めて自発的に断髪したことで”伝統主義の束縛”から自らを解放することに成功したからです。そしてそのことがエリートとしての彼らの人生を決定つけることになります。だがしかし高嶺氏の回想にも明治天皇への拝謁については一言もふれていません。この点はさておき、今回はブログ主にて現代語訳と原文を併せて掲載します。読者のみなさん、是非ご参照ください。

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クシャミ発言は問題にするに足らず

最近ブログ主は10月14日の沖縄タイムスの記事に触発されて、尊敬する太田朝敷先生の史料を複数入手および当ブログにて一部掲載しました。同コラム執筆者の伊佐眞一さんは「それでも彼を語るときに、真っ先に出てくるのは、たぶん「クシャミ発言」でしょうか。クシャミまでヤマトゥンチューの真似をしろ、と高等女学校の開校式典で言ったものですから、のちのちまで多方面に拡がり、戦後の太田さんを一躍悪名高くした言説です(下略)。」と記載しておりますが、たしかに現代の沖縄では太田先生イコール「クシャミ発言」というレッテルが独り歩きしている感があります。

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