昭和38(1963)年11月21日から、又吉世喜殺害未遂事件(ほか証人脅迫)の裁判が米国民政府高等裁判所で始まりました。被告人は喜舎場朝信、新城喜史で、実はこの裁判は琉球・沖縄の歴史上初の “大陪審員制度” で行われた歴史的な出来事です。
ちなみに実行犯の(疑いがある)山中一夫は国外である “宮崎県” で逮捕されるというこれまた異例の展開ですが、この裁判においてコザ派内部に “組織” が存在していたという証言が飛び出して世間は騒然とします。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部レイアウト変更済。
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今回はブログ主が蒐集した沖縄ヤクザ関連の史料のなかから、多和田真山さんのインタビュー記事を掲載します。昭和53(1978)年11月30日発行の大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』から抜粋しましたが、ブログ主は取材にたいして出来る限りの応対を心がけている多和田会長の態度に驚きを隠せませんでした。
約二時間ほどの取材で、記事も(おそらく)インタビュー全文を掲載していませんが、それでも抗争の経緯や旭琉会の立場、そして今後の成り行きについて丁寧に説明しているあたり、やはり彼はトップに立つ人物だと実感しました。ブログ主が多和田真山さんに強く興味を持ったのも、この記事をよんだことがキッカケにあります。該当部分を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。
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ここ数日、当ブログのアクセス数が異常な伸びを示していたので、Google Analytics を使ってその原因を探ってみました。どうやら令和元年8月26日の沖縄タイムス電子版の記事がきっかけで、当ブログの該当記事にアクセスが集中したようです。
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前回「おくやみ欄と暴力団」と題した記事を配信しましたが、実はそのほかにも沖縄ヤクザ関連のお悔やみ記事を入手しましたので紹介します。正直なところ掲載されている人物のメンツがあれなので当初は公開をためらったのですが、戦後沖縄社会を伺う上で一級史料であるのは間違いありません。そのためブログ主判断で公開しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。
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既報ですが、7月12日に指定暴力団「旭琉會」の富永清会長が死去しました。当ブログでも当日午後から彼について言及した記事のアクセスが異様に伸びていたので、現代の情報伝達スピードの凄さを実感した次第ですが、今回は “富永清” の名を世間に知らしめた第六次沖縄抗争について図解を試みましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。
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今回は明治34年1月11日付琉球新報2面に掲載された論説を公開します。ブログ主はこの論説の存在を「琉球新報は何事を為したる乎」で初めて知りましたが、実際にチェックすると琉球国から明治にかけての糖業の致命的欠陥を伺うことができる第一級の史料であると確信しました。その欠陥とは流通ルートを薩摩人(あるいは鹿児島県人)の糖商に牛耳られてしまったため、黒糖の買い手が圧倒的に有利であったことです。
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今回も太田朝敷関連の資料を掲載します。琉球新報は明治33年7月15日から紙面を大幅に改良しますが、その2日後に「広告の利益」と題打った社説を掲載します。ブログ主はこの論説を非常に重視していますが、その理由は琉球新報社が営利を意識して新聞を発行していたことがハッキリ分かるからです。
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今回は明治33(1900)年9月17日付琉球新報の無署名記事「寄奈良原男爵書」を紹介します。奈良原繁知事在任中(1892~1908)に掲載された知事評は実に珍しく、しかも論評が極めて冷静かつ的確であり、明治時代のジャーナリストのレベルの高さと社会における言論の自由度を伺える内容となっています。
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●琉球新報は何事を為したる乎(承前)
◎教育に関しては前項にも述べたる通り、我輩は多く専門家に譲り、只其結果として社会に出現したる弊害に就ては随時酷と思ふ程の批評をなしたること往々これあり。その要点を一二挙ぐれば本県の教育家が外観(ミエ)を張る為めに不相当の設備をなして民力を顧みざりしこと、教育の方法が社会の要求に副はざるもの多きこと、教育家に死法に拘泥して活知識に乏しきもの多き事にして、直言の為めその反目を受けたることまゝありき。然れども諸君我輩は教育に重きを置けばこそ苦言も呈するなれ、我輩が常に教育家に向かって相当の尊敬を払ひ、鄭重の待遇をなすを見ば教育家諸君は当に我輩の微衷を諒察せらるべし。
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●琉球新報は何事を為したる乎(二)
◎一般教育に関する特別の注文は曾て本紙上に縷陳(るちん=縷述)したるもの多し。然れども差当り切に希望するものは日本国民としてのコンモンセンスの中にも最もコンモン(普通)なる感覚の養成也。此(の)感覚は本県は他府県と大に異なる所あり。而して之を一致せしめざれば感情の融和到底望むべからず。感情融和せずして国民たるの実を全ふせしむることは是れ亦(また)到底期すべからざるの事也。本県に於て国民教育の基礎となるべき知識を注入するは先づ他府県と其感覚を一致せしむるにあり。他府県と一致せざる所の感覚とは大略左の如し。
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●琉球新報は何事を為したる乎(一)
◎新聞紙が文明の社会に於て重要欠くべからざる一機関たることは世間既に定論あり。我輩が今更喋々するの要なかるべし。然して本県の旧社会が殆んど解体して新社会未だ建設せられず万事草々人々相率ゐて以て暴乱暗黒の谷底に陥らんとする時本紙は時代の要求に応じ特別の使命を帯て生れたり。時は明治二十六年九月十五日、場所は那覇区字西の借屋なりき。
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ブログ主は不定期ではありますが、過去の新聞や刊行物から沖縄ヤクザ関連の史料を蒐集・整理しています。その中で異彩を放つ人物はだれかと問われると、ブログ主は “多和田真山” と即答します。
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平成30年(2018年)10月6日付の “Number Web” に “プロ野球選手の昔の風格が凄かった!衣笠祥雄の秘蔵写真とカメラマン秘話” と題したコラムが掲載されてましたが、その中の全日空ボーイング737機のタラップから降りてくる広島東洋カープの選手たちの写真を見たときに、ブログ主は最初絶句その後爆笑してしまいました。
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今回は現時点で確認できる最古の太田朝敷先生の史料を紹介します。沖縄県立図書館で公開されている明治27(1894)年12月16日付『琉球新報』の中に “大田朝敷” 名義の署名広告と国頭地方を巡回視察した記事、および日清戦争に関する記事が掲載されてました。平成5(1993)年以降に刊行された『太田朝敷選集(上・中・下巻)』には掲載されていない史料になりますが、それは同記事の発見が2000年以降であったのが理由で、もしかすると今回初めての一般公開になるかもしれません。読者のみなさん、是非ご参照ください。
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以前、当ブログにて琉球・沖縄の歴史上で確認できる限り最初に文字が読めた女性について言及しました(琉球・沖縄の歴史上最も偉大な女性の思い出話)。今回は『琉球新報』あるいは『沖縄県史 – 資料16、女性史新聞資料明治編』を参考に、同時代に文字が読めたであろう女性について記事をまとめてみました。
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