人物

ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その7

□ベトナム戦争時代のバンド契約 ベトナム戦争時代〔昭和50(1975)年4月まで〕のバンド契約は、一九六六年か六七(昭和四一か四二)年ぐらいで私たちのバンドは月に二〇〇〇ドルでした。そのころ、だいたい良いバンドで二〇〇〇ドルから三〇〇〇ドル、普通のバンドで一二〇〇から一五〇〇ドルぐらいでした。この一五〇〇ドルを四人で分けたとしても、そのころの銀行員の給料が月に一〇〇ドル近くになっているから、四倍ぐらい貰っていることになります。

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ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その6

□夏休みのバンド活動 PTAと先生方と生徒が一緒になってのものでしたが、コザ小学校で謝恩会というのがあって、そのとき私たち、そこで演奏をやってしまったわけです。

すると、みんな口を開けて見ていて、もう先生方も生徒もヌーガ・キーガ・ワカラン(何が何やらわからない)という感じでしたが、そのときの反応はというと、音はエレキギターですから、ベース、ドラム、ギターでうるさいんだけど、私たちは清潔にはしていたんで、面白くもないし、そうかといって無視はできないしという感じでした。

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ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その5

□勉とのつき合い (外間)勉とは家が近いので「こういう音楽もあるよ」と、レコードのやりとりをする仲でした。

私たちの高校時代に、瑞慶覧基地(北中城村)や嘉手納基地とかでゴーゴーダンスコンテストがありました。今でいえばパレットくもじ(デパート)なんかで高校生が踊ったり、ディスコでひっくり返ったりして踊っているものと同じです。これを高校三年のときに、私と外間勉の二人でずっとあちこち荒らしまわっていたんです。勉はおしゃれな踊りが上手かったけれど、私の場合はどちらかというとクセのある踊り方でした。

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ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その4

□高校三年で社交ダンスを教える ようするに学校の伝統というか、後輩は先輩に対してあいさつするとか、上級生になるまでは生意気なことをしたらだめだとかいうのがあるんですけど、私は先輩も後輩も平等、男性も女性もみんな平等と思っていますし、一年のときからこうだから目に入りますので「なんだこいつは新入生のくせに」ということで呼ばれて、それで四人ぐらいに三度、制裁を加えられたんです。

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ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その3

□高校生時代 私は、高校はコザ高校です。

高校では、「体操部に来い」とか「卓球部に来い」とか、また、中学の三年のときに校内マラソンで一番になってしまったから「トォー・アン・シェー(よしそれなら)陸上部に来い」とか、そういったヌー・ヤン・キー・ヤン(なんだかんだ)といって誘われましたが、体操部と陸上部にはあまり女性がいなかったので、それで、そのときかわいい子がいた卓球部に入ったんです。

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ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その2

□中学校時代 私は、中学はコザ中学校です。

当時は、ゴヤ商店街(今の一番街)がありますよね、そこのおやじはほとんどみんな知っていますから、洋服とかシャツとかの品物を置いてある台が店の前にあって、そこでおじいちゃんなんかが囲碁とか将棋をやっているんですよ。

それで、中学校の帰りに「何やってるのかな」とのぞくと囲碁は白と黒がこうなって、将棋もこれがこうなって、ああこうなってこうなってと、ずっと二時間ぐらい見てて、それでだいたいわかってきて「アハァ、ウレェ、ウング・トゥー・シルス・サヤー(これはこうやってするんだな)」と覚えたわけです。

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ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その1

□生い立ち 私は、生まれたところがわからないんですよ。一九四四(昭和十九)年八月十八日生まれで、宮古のどこか、誰も教えてくれないんです。それと、私は一人っ子ですが、遠い親戚が息をひきとる前に、双子の兄弟がいるといっていたんですが、ああいうときに嘘はいいませんよね。だから、私と似ているのがどこかにいるんじゃないですかね。

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たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その2

(続き)今回は、玉陵(たまうどぅん)について言及しますが、実はこの建築物は調べれば調べるほど “矛盾” だらけなのです。参考までに『球陽』をチェックすると、「尚圓王已ニ薨シテ、見上森ノ陵ニ葬ル。今番新ニ玉陵ヲ中山坊内ノ池ニ築ク。前ハ首里ノ大街ニ臨ミ、東ハ天界寺ヲ側ニス。先王尚圓王ヲ奉シテ、コノ玉陵ニ移葬ス。」とあり、見上森の陵(みやーぎむいうたき)に埋葬されている尚円王の霊骨を、1501年(尚眞王即位25年目)、玉陵に移葬したと記述されています。

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たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その1

ここ数回、当運営ブログでは珍しく “古りうきう” の真面目な仮説記事を掲載し続けています。それはつまり、「古琉球の深淵 – おぎやかの謎」の続編を掲載すべく、彼女に関して集めた史料を改めてチェックしたところ、これまで気が付かなかった “盲点” に気づいたためですが、今回もその流れで「たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)」について言及します。

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浦添朝満の謎 – その(2)

(続く)今回は、浦添朝満(1494~1540)の “失脚” について、ブログ主なりに言及しますが、実はこの案件で困ったことがあります。それは、彼が尚眞王の長男でありながら最終的に廃嫡の憂き目にあったため、後世の人たちから悲劇の主人公扱いされている点です。

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浦添朝満の謎 – その(1)

今年に入って、「二代目聞得大君の謎」と題した記事を3回配信しましたが、実はブログ主の予想の斜め上を行く反響がありました。その際に、二代目聞得大君こと峯間(みねま)の史料をできる限りチェックしたところ、向氏小禄家(一世朝満)の一族に関する思いがけない事実に気が付きました。

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二代目聞得大君の謎 – その3

(続き)前回の記事において、系譜上では浦添朝満の長女である峯間(聞得大君)が、血統的に慈山より格上だったとの仮説を提示しましたが、今回はこの点に関して、ブログ主なりに調子に乗って説明します。

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二代目聞得大君の謎 – その2

(続き)今回は二代目の峯間聞得大君について考察しますが、彼女の存在は史料上で二例確認することができます。一つが18世紀初期ごろに編纂されたと考えられる『女官御双紙(にょかんおそうし)』、もう一つが向氏家譜(小禄家)の一世浦添朝満(うらそえ ちょうまん)の項です。

※実は「峯間」の読み方が伝わっていないため、とりあえず日本語の「みねま」のフリガナを宛てておきます。

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二代目聞得大君の謎 – その1

今年に入って、ブログ主は運営ブログ内の記事を大整理していますが、思った以上に「未完の記事」があることに気が付きました。その中の一つに “古琉球の深淵 – おぎやかの謎(1)” と題した記事があり、連載当時は興味深いテーマだったので、史料集めなど気合を入れて作成したのですが、気が付いたら続編をアップすることなく、1年以上放置されていました。

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