□Where’s Bank? (銀行はどこ) そうして、ロサンゼルスのオフィス街でようやく銀行を探し当てて入ったのはいいのですが、パジャマで黄色いサンダルを履いて米を買うつもりで出ていった奴らが、しかもカラジ(髪)もこんなしているヤナ・カーギー(長髪で変な風貌)ですから、警備員が入れてくれないわけです。
エディに「エツー、お前が銀行に行ってこい。ワッター(俺たち)二人で行ったらこいつ車持って逃げるよ。俺、ここで座っておくから、おまえ早く行ってドルに替えてこい」といわれてエツーが銀行に行ったんです。
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□アメリカでレコーディング 一九七〇(昭和四五)年にアメリカでレコーディングしようということで、ワーナーブラザーズの映画会社にレコーディング部があって、そこのスタジオでやりました。
これは、「デージだったよ(すごかったよ)」というディズニーランドでバカ受けした噂が日本にまできているんです。それで、キャニオンレコード会社から「イッター(君たち)はアメリカにむいているから、トォー・アンシェー・イッター(さあそれなら君たちの)レコーディングはアメリカでやれ」といわれ、二枚目のLPレコードはアメリカのワーナーブラザーズのスタジオで無事レコーディングを済ませたんです。
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□ディズニーランドで演奏 私たちが最初にアメリカに行って公演したのは、何年のことだったか覚えていないのですが、新聞に載っていたと思いますよ。アメリカのディズニーランドにある大きな野外劇場で、ジャパンフェスティバルというものがあったんです。テレビはNHKしか入れないということでした。
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□クビと再加入 喜屋武幸雄の「マリーWITHメデューサ」のバンドと「コンディショングリーン」の二つでやっていた「サウンドシティー」が一年以内に閉鎖したあと、私が金武のむこうでやっていたときに、ミュージシャンとミュージシャンじゃない私との違いが出てきました。
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(続き)私は「エー・オーナー、ヤーヤ・テー(あんたはね)、今はさ・ワッター(俺たちの)バンドはベースの中も、野外で万座ビーチとかでイベントすると、アメリカー・ター・ワーラナイ・アチマイ・クトゥ・ヤー(アメリカーたちがいっぱい集まって来るしさー)、最近は日本人も三分の一コンサートに来るからよ、アメリカー・ター・ビカー・アラン・ドー(アメリカーたちだけじゃないよ)。どこでもいい、とにかく場所がボーリング場があったんじゃないか、映画館とか。一番ボーリング場ぐらいの広さがいいと思うよ」とオーナーにいったんです。
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□基地内でバンド活動 さすがに金網の中までは縄張り料を取りにこないだろうと思って、私たちは同じメンバー(コンディショングリーン)で、基地の中をずっとまわってやっているわけです。
そしたら、ヤクザが「アッター・マーンカイ・ンジャ・ガ(あいつらはどこに行ったのか)」と探していたそうですが、「アッター解散サンドォー(あいつらは解散したよ)。派手によ、ステージの上で喧嘩して解散したみたいヤッサー(だよ)」ということを聞いて、「あのバンドォ・ナー・ネーン・バー(あのバンドはもうないのか)」といっていたそうです。
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(続き)そして、演奏中にこれで大げんかしているわけよ。メンバーの一人が「ンマ、ウングゥ・トゥー・ンディ・イチャ・サニ、何回・ワンネー・イチャガ・ヤーン・カイ(ここは、こんなっていっただろ、俺は何回いったかお前に)」というと、あと一人が「アレー・ヤーガ・ウング・トゥー・シェー・カラ、ワンガ・チガトォール・フージー・ナイシェ、ワンネー・アットォー・シガ・ヤーガ・ウングゥ・トゥー・スクトゥ、ワンガ・マチガ・トォーン・フージー・ナインバー・ヨー、何回・ヤー・イレー・ワカイガ、ウマァ・ウング・トゥシ・ノーシ・ドー・ンディ・イチャ・セー(あれ、お前がこんなしたら俺が違っているみたいになるだろ、俺は当たっているけどお前がこんなするから俺が間違っているみたいになるわけよ、何回お前にいったらわかるの、ここはこんなして直せっていっただろ)」というふうにベースとギターでやり合ったんです。
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□演奏中に大げんかを「演出」 そして、一〇年ぐらいたってからまた暴力団がやってきて「カッちゃん、クゥンドー・ワッター・トー・チガイン・ドー。クゥンドー・イッター・ヌガーラサン・ナー(今度は俺たちと違うぞ。今度はもうお前たちも逃げられないぜ)」というので、私が「ヌーガ、ヌーンチ(何が、何でよ)」と聞くと、「クゥンドー・ヤマトゥ・カラ・チョーン・ヨー・ヒャー(今度はヤマトから来てるんだぜ)と暴力団がいうんです。
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□🐈殺せる人ってなかなかいないよ 家に帰って、大きな鍋にスブイ(冬瓜)と昆布と🐈の肉も切って全部入れて、🐈汁というのか🐈鍋というのかこれ作って、「ウリヒャー、トォー・シグ電話・サヒー(ほらできた、すぐ電話しょうな)」といってライブハウスの家主のところに連絡したら、「イッターン・カメー(あんたたちも食べなさい)」といわれて、私たちも「ヤッサー・ヤー(そうだね)、食べてみようかね、食べよう」といって一緒に参加することになったんです。それで「マー・サッサー・ヤー(おいしいねぇ)」といってみんな食べていました。
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(続き)やっぱり、夜でも砂辺の海岸にはアベックがたくさんいましたよ。三時ごろに、私たちはその中を懐中電灯を持って歩きながら、「エー(なあ)🐈でもさ、魚を三枚におろすさ、あれと同じみたいなもんじゃないか」といったら、「皮がついてる。キー・ブター・シ、カー・チャー・スガ(毛だらけだのに、皮はどうするわけ)」といわれたんです。それで「皮な。皮は焼いたら」とかいうと、また「違うさ。あれは、鶏でもなんでも焼くのは、焼きブタとかじゃないか、毛を取るとかああいうの」というのもいるんです。
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□マヤーの肉 昔、私たちが借りているライブハウスの家主の奥さんが「カッちゃん、馬肉とか、牛肉、豚肉たくさんあるけど、うちのお父さんがね、内臓(腎臓の病気)には🐈の肉が効くっていうから。那覇の市場に行っても🐈の肉は売ってないのよ」といいだしたんです。それで私は「何、🐈食べるわけ」と聞くと、奥さんに「あのね、どこにも売っていないから、あんたなんか鶏も蛇も食べるさね、だからあんたなんかだったら🐈も料理して持ってくるんじゃない」といって頼まれてしまったわけです。
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(続き)でも私は「アッハー・ワカタン、イッター・シーカタ・ワカタン。ワッター・ガ・オーン・ディ・イレー・カラ、イッターヤ・ウヌ・バンドー・ウリサーニ・シムン・ドー・ンディ(わかった、あんたたちのやり方はわかった。俺たちがいいよっていったら、あんたたちはこのバンドはこれでいいってよ、というんだな)。ああ、イッター・ワカタン、ナー・ダメ・ヤッサー・ウレー(あんたたちのはわかった、もうこれもだめだね)」といって、といって、彼らがバンドから了解を得たからといって給料の上にプラス三〇ドル・ンディ・イーネー(といえば)、バンドもOK出しているからオーナーに対して強くいえるので、断ったんです。
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(続き)今度はまた、中堅幹部が「エー・イッター仕事ヤ・何時にウワイ・ガ、ワン・マッチョー・チュク・トゥ・ヤー、ウマン・カイ、玄関ンジ。ヒンガ・サン・ドー、チュウ・ヤ(おい、お前たち仕事は何時に終わるのか。俺は玄関でまっているからな、今日は逃がさないからな)」と店まで来て脅かすんです。
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□ヤクザとの対立 私はバンド活動を、学生のころのように調子にのってやっていましたから、あのころの暴力団から縄張り代を請求されたこともありました。だから、私は中部病院にも運ばれましたよ。私は高校のときにも上級生から目をつけられましたけども、社会に出てもそんなことがあるんだなと思いました。
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□死体洗い その時のバンドのメンバーは、沖縄で一番キャラクターが強い奴ばかり集めて組んでいたわけですが、性格が合わずに一人抜け、二人抜けして、入れ替わりが激しかったんです。そのメンバーから抜けた奴の一人でヒコー(嘉手刈武彦さん)がいましたが、彼は陸軍病院の死体の浮かぶプールでベトナムから送られた顔や内臓のない死体を洗っていたんです。
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