人物

ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その1

□生い立ち 私は、生まれたところがわからないんですよ。一九四四(昭和十九)年八月十八日生まれで、宮古のどこか、誰も教えてくれないんです。それと、私は一人っ子ですが、遠い親戚が息をひきとる前に、双子の兄弟がいるといっていたんですが、ああいうときに嘘はいいませんよね。だから、私と似ているのがどこかにいるんじゃないですかね。

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たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その1

ここ数回、当運営ブログでは珍しく “古りうきう” の真面目な仮説記事を掲載し続けています。それはつまり、「古琉球の深淵 – おぎやかの謎」の続編を掲載すべく、彼女に関して集めた史料を改めてチェックしたところ、これまで気が付かなかった “盲点” に気づいたためですが、今回もその流れで「たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)」について言及します。

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浦添朝満の謎 – その(2)

(続く)今回は、浦添朝満(1494~1540)の “失脚” について、ブログ主なりに言及しますが、実はこの案件で困ったことがあります。それは、彼が尚眞王の長男でありながら最終的に廃嫡の憂き目にあったため、後世の人たちから悲劇の主人公扱いされている点です。

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浦添朝満の謎 – その(1)

今年に入って、「二代目聞得大君の謎」と題した記事を3回配信しましたが、実はブログ主の予想の斜め上を行く反響がありました。その際に、二代目聞得大君こと峯間(みねま)の史料をできる限りチェックしたところ、向氏小禄家(一世朝満)の一族に関する思いがけない事実に気が付きました。

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二代目聞得大君の謎 – その3

(続き)前回の記事において、系譜上では浦添朝満の長女である峯間(聞得大君)が、血統的に慈山より格上だったとの仮説を提示しましたが、今回はこの点に関して、ブログ主なりに調子に乗って説明します。

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二代目聞得大君の謎 – その2

(続き)今回は二代目の峯間聞得大君について考察しますが、彼女の存在は史料上で二例確認することができます。一つが18世紀初期ごろに編纂されたと考えられる『女官御双紙(にょかんおそうし)』、もう一つが向氏家譜(小禄家)の一世浦添朝満(うらそえ ちょうまん)の項です。

※実は「峯間」の読み方が伝わっていないため、とりあえず日本語の「みねま」のフリガナを宛てておきます。

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二代目聞得大君の謎 – その1

今年に入って、ブログ主は運営ブログ内の記事を大整理していますが、思った以上に「未完の記事」があることに気が付きました。その中の一つに “古琉球の深淵 – おぎやかの謎(1)” と題した記事があり、連載当時は興味深いテーマだったので、史料集めなど気合を入れて作成したのですが、気が付いたら続編をアップすることなく、1年以上放置されていました。

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骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■5■ / 壊滅作戦

多和田会長射殺事件は犯人2人の早期逮捕と県警の厳重な警戒体制が功を奏して、今のところ内部抗争に発展する気配もなく、事態はいちおう沈静化の方向に動き出したようだ。しかし暴力をバックにした不法集団内部の陰湿な権力闘争によって、県民の受けた迷惑は計り知れない。

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今帰仁延子さんの考察 – その3

(続き)10代の経験が、後年に及ぼす影響についてはよく知られていますが、今帰仁さんも例にもれず、13歳から17歳までの4年間に受けた教育がその後の生きざまに決定的な影響を及ぼしたことは間違いありません。

その前に、彼女が如何に “特別な存在” であったかについて同級生の証言を紹介します。

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今帰仁延子さんの考察 – その2

(続き)今回は、ブログ主が確認できた史料を基に、作成した今帰仁延子さんの年表をアップします。すると、幼少期の体験が今帰仁さんに決定的な影響を与えていたことが理解できますので、そのあたりをできる限り、そして調子に乗って分かりやすく説明していきます。

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今帰仁延子さんの考察 – その1

年末から年始にかけて、ブログ主は可能な限り時間をつくり、過去に蒐集した史料の整理・整頓を行ないました。その際、昭和43年(1968)7月5日に起こった「琉球銀行若松支店強盗事件」の新聞史料をチェックしたところ、驚くべき記事を発見しました。

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“長寿県沖縄” という戦後最大のユクシムニーの考察(3)

(続き)前回の記事の〆で、「長寿県沖縄というブランドを確立してジン儲けしようという品性卑しい大人が存在する限り、県民が本気で生活習慣の改善に乗り出すことは絶対にありえない」などど、ブログ主らしからぬ(?)キツいことを言ってしまいましたが、実はちゃんとデータがあっての発言なのです。

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金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 田場盛孝、喜屋武盛一、多和田真山

(続き)那覇派幹部の田場盛孝が、組員約70人を率いて那覇派を離れ、宜野湾市普天間に普天間派を結成したのは、昭和39年4月のことだった。

田場は元は米軍のトラックの運転手をしていて、「戦果アギャー」のリーダーだった。だから、立場としてはコザ派に近かったのだが、彼は喜舎場朝信とも新城喜史とも折り合いがわるかったので、コザ派には加わらなかった。

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三代目旭琉会 – 分裂〈下〉

二代目多和田会長が射殺された後、三代目翁長良宏会長が就任。表面上は対立もなく、平静さを保っていた。しかし、今年の五月三日夜、那覇市内の翁長会長宅と沖縄市の富永一家事務所にそれぞれ配下多数が終結したことから、内部対立が再び表面化した。

この時は双方の幹部が山口組の仲介で話し合いを持ち、そのままの体制を維持することで一応の決着が図られた。しかし、月に一回定例で開かれていた総長会議は、和解後も開催されていなかったことから、双方の緊張状態は解消されず、一色即発の火ダネがくすぶり続けていたといえる。それが連続発砲事件で一気に噴き出した形だ。

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三代目旭琉会 – 分裂〈上〉

血で血を洗う全面抗争へ…。県内最大の暴力団三代目旭琉会(翁長良宏会長)が二つに分裂した。以前からくすぷり続けていた会長派、理事長派(富永清理事長)の対立が、〔平成二年〕十三日の発砲事件により、再燃。理事長派が会長派から絶縁され、新組織「沖縄旭琉会」を結成。県内暴力団情勢は、一気に緊迫の度を増してきた。

さらに〔同年〕二十一日には会長派の丸長一家組員が、富永一家組員数人に暴行を受けて重傷を負うなど、一日で四件の発砲事件が発生した。両団体の勢力争いが、全面抗争へと向かう情勢に、県警では「三代目旭琉会対立抗争事件特別捜査本部」を設置し、三百人、二十四時間態勢で各事務所などの警戒を強化している。旭琉会誕生から分裂の経緯、過去の抗争事件、県警の対応などをリポートした。

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