今回は昭和24年(1949年)の瀬長亀次郎さんの経歴についての史料をアップします。瀬長さんは昭和23年(1948年)まで沖縄民政府の又吉康和副知事、米軍政府の情報部長ハウトン大尉の庇護のもと、沖縄議会の議員および新聞社の社長として精力的に活動します。
もともと米軍政府は「うるま新報」が人民党幹部で占められていることに対して快くは思っていませんでした。「公平さを欠く」というのがその理由ですが、ハウトン大尉が情報部長の間は黙認されます。沖縄議会においても瀬長さんが又吉康和さんに忠実である以上、彼の地位は安泰でしたが、昭和24年(1949年)になると状況が一変します。
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唐突ですが、今回は沖縄ヤクザ関連のネタを適当に並べてみました。実は琉球王国および戦前の沖縄には現代のようなヤクザ組織はありませんでした。沖縄戦後、アメリカ世になって初めてアンダーグラウンドの世界を仕切る反社会的な集団が誕生します。この点は琉球・沖縄の歴史を語る上で重要なので、ブログ主は不定期ですが当時の新聞などを確認して情報を収集しています。大雑把にいって昭和27(1952)年から昭和42(1967)年ごろまでのエピソードを思いつくまでに並べてみました。是非ご参照ください。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。
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琉球新報八十年史 – 新聞にみる沖縄の世相(1973年)の通史編 – 第五章に以下の記載があります。
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昭和23(1943)年の瀬長亀次郎さんの活動に関しての(現時点で蒐集した)史料をアップします。前回同様分量が多いので解説は後日改めて掲載します。今回の史料で興味深いのは、アメリカ世の立法院の時代における名議長で名高い長嶺秋夫氏(1908~2002)の政界デビューに瀬長さんが関わっていたことです。読者の皆さん是非ご参照ください。
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昭和22(1947)年の瀬長亀次郎さんの活動に関しての(現時点で蒐集した)史料をアップします。今回は分量が多いので解説は後日改めて掲載します。『琉球新報80年史』からの抜粋に関しては、当時のうるま新報の様子を知る上で重要なので、読者の皆さん是非ご参照ください。
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先日ブログ主は沖縄県立図書館において、昭和7(1932)年に琉球新報に掲載された『あの頃を語る』の記事を閲覧中に、ずっと探していた安村つる子女史(1881~1943)の思い出話を見つけることができました。安村つる子(旧姓久場ツル)さんは明治14(1881)年首里にうまれ、沖縄初の女性教員として首里尋常高等小学校に勤務、琉球・沖縄の歴史上初めて学業によって身を立てた女性です。実はそれだけではなく、安村女史は
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先日、沖縄県立図書館(にしか貯蔵されていない)の『又吉康和追悼録』を始めて読んだところ、面白い話を見つけましたので紹介します。追悼録には千原繁子さん(沖縄初の女性医師、1898~1990)の追悼文が掲載されていましたが、その中に又吉さんが千原さんを諭す箇所がありました。
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今回はブログ主が蒐集した昭和20(1945)年の瀬長亀次郎氏の消息を掲載します。今後新しい情報を確認次第、改めて追記することにしますが、現時点でブログ主がチェックしたところの瀬長さんの動きは大まかに纏めると、
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ここ数日間、ブログ主は昭和20年から25年にかけての瀬長亀次郎さんの経歴をチェックしていましたが、沖縄公文書館が Web 上で公開している文書のなかに面白い資料を見つけましたので掲載します。
琉球政府文書 – 政党に関する書類(1)結成届け、綱領、会計報告のページで、沖縄人民党関連の資料が公開されていますが、その中の 108㌻以降、1949年11月2日付、沖縄人民党中央委員会が沖縄知事志喜屋孝信(しきや・こうしん)宛てに提出した『政党に関する報告』の中の役員名簿を見たときに、ブログ主は「えっ??」と思った記述がありましたので、画像を貼り付けます。
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今回は又吉康和(またよし・こうわ 1887~1953)氏の「自治尚早論」の全文を掲載します。先ず又吉氏のプロフィールを『沖縄大百科事典』から抜粋しますのでご参照下さい。
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ここ最近ブログ主は、瀬長亀次郎さんに関する記述をいろいろ調べているうち、面白い情報をいくつか発見しました。今回アップするのは瀬長さんの七高時代の恩師、松原多摩喜氏の回顧録『七高在職十七年の好ましくない思い出と自身の失敗の数々』から史料を掲載します(この文章は安仁屋政昭著 『沖縄の無産運動』 からの抜粋です)。
この文章は、おそらく瀬長さんが那覇市長を追放され、その後民連(民主主義擁護連絡協議会)で議長を務めた1958年あたりに書かれたと思われます。七高時代の瀬長さんは、アカの道に進んだことが父親にばれて、送金を停止されて大変困っていました。そこで現在の窮状を当時の担任であった松原氏に相談します。そのような背景があった点を頭に入れて松原氏の回顧録をご参照下さい。
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今回は高嶺朝光(たかみね・ちょうこう)さんの著書『新聞五十年』から、戦前の瀬長亀次郎さんに関する記述を掲載します。瀬長さんはたしか昭和6年(1931)に共産党に入党、本土で労働組合活動中に検挙され、3年の懲役刑を受けます。そのうち1年は沖縄刑務所に服役して、出所後は県の工業指導書で蒔絵職人として働きます。
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前回の記事で瀬長亀次郎さんが中国戦線から復員した昭和15年(1940)以降、平良辰雄さん(1892~1969)のお世話になっていたことを記述しました。その縁があって、沖縄戦終了後の捕虜収容所の時代(田井等)においても瀬長さんは平良辰雄さんの下で再び働くことになります(平良辰雄さんは収容所の市長に就任、瀬長さんは庶務課長として勤務しています)。
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前回、瀬長亀次郎さんが大東亜戦争の際に “翼賛壮年団” に加入していた件について記述しました。この事実は瀬長さんの回想録や『沖縄人民党の歴史』あるいは瀬長フミさんの回想録『熱い太陽のもと激動の島に生きる』など関連著作には一言も記述がありません。つまり黒歴史として抹殺されているのですが、瀬長さんの生き様を振り返るとやむを得ないかなと思います。その理由は彼が “カリスマ的指導者” として人民党を率いていたからです。
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