今回は昭和27(1952)年11月14日付琉球新報に掲載された社説「琉球と現実」について言及します。ブログ主が確認した限りではありますが、ここまで沖縄県民の本質をズバリ指摘した言説はちょっと見当たりません。昭和27年当時とはいえ現代の沖縄県民にも通ずる内容で、当時の言論人のレベルの高さを伺い知ることもできる貴重な史料です。
人物
沖繩の魂未だ死せず
今回は昭和26年(1951年)9月23日付琉球新報の社説を紹介します。当ブログにおいて既に紹介しましたが、同年9月10日付でうるま新報から琉球新報に復元改題後間もない時期に「沖縄の魂未だ死せず」と銘打った社説が掲載されたことにブログ主は感動を覚えました。理由は民族的な意味を含む形で”沖縄”という単語を使用しているからです。
自由と平等の観念に対する誤解を憂うお話
いまさらブログ主が指摘するほどの案件ではありませんが、廃藩置県以前の琉球社会において “自由と平等” という観念は全くといっていいほど存在しませんでした。先日『太田朝敷選集』をチェックしている際に、そのことに触れた箇所を見つけましたので今回当ブログにて掲載します。(今回取り上げた史料の全文『琉球新報は何事を為したる乎』は後日当ブログにて掲載します)
※令和5(2023)年1月16日、アイキャッチ画像を変更ました。4年ほど前に調子に乗って書いた “作文” ですが、令和の今日でも「うちあたい」する輩が多いと感じるのは気のせいだと思いたいです。
クシャミ発言は問題にするに足らず
最近ブログ主は10月14日の沖縄タイムスの記事に触発されて、尊敬する太田朝敷先生の史料を複数入手および当ブログにて一部掲載しました。同コラム執筆者の伊佐眞一さんは「それでも彼を語るときに、真っ先に出てくるのは、たぶん「クシャミ発言」でしょうか。クシャミまでヤマトゥンチューの真似をしろ、と高等女学校の開校式典で言ったものですから、のちのちまで多方面に拡がり、戦後の太田さんを一躍悪名高くした言説です(下略)。」と記載しておりますが、たしかに現代の沖縄では太田先生イコール「クシャミ発言」というレッテルが独り歩きしている感があります。
女子教育と本縣 – その2
今回は明治33年7月5日付琉球新報2面に掲載された『女子教育と本県』の後半部を掲載します。太田朝敷先生のイメージを悪くした「クシャミ発言」はこの中に記載されていますが、演説全文を通してみますとそこまで大騒ぎする発言ではありません。「沖縄は差別されている」という観念をいったん頭に中から意識的に取り除いて通読することをお勧めします。後半部も前半と同様に現代文への翻訳と原文を併記しています。
女子教育と本縣 – その1
今回は明治33(1900)年7月1日、沖縄高等女学校開校式における太田朝敷先生の演説『女子教育と本県』の全文を掲載します。正確には同年7月3日の琉球新報に掲載された前半部と、7月5日に掲載された後半部に分けています。琉球新報の原文は旧漢字かつ句読点がついていないため、試みにブログ主にて訂正した部分と、原文書き写しをアップしました。太田先生を語るうえで必ずと言っていいほど出てくる「クシャミ発言」は後半部にあります。まずは前半部をご参照ください。
平成30(2018)年10月14日、沖縄タイムス29面
平成30年(2018)年10月14日の沖縄タイムスに掲載されていた太田朝敷関連のコラムを掲載します。著者の伊佐眞一さんは『太田朝敷選集』の編集者でもあり、それ故に当コラムも実に読み応えのある内容となっています。沖縄タイムス購読者が好みそうな内容でまとめ、なおかつ太田先生の経歴を上手に紹介しているあたりはさすがの一言でブログ主も大変参考になりました。全文を書き写しましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。
日共の対琉要綱 – 沖縄タイムスの社説
今回は昭和29年(1954年)8月30日に米国民政府から公表された『日共の対琉要綱』に対する沖縄タイムスの社説を掲載します。なお琉球新報は冷静な論評を掲載していた印象がありますが、沖縄タイムスの記事は辛辣そのもので、おそらく読者の皆さんもびっくりするかと思われます。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その2
以前、沖縄ヤクザに関するエピソードを当ブログにて紹介しました。この記事は予想の斜め上をいく反響があり、調子に乗ったブログ主が現時点で蒐集したエピソードを掲載します。ちなみに沖縄ヤクザの歴史に興味を持った理由はただひとつ、以前にも指摘しましたが大日本帝国時代にはアウトローを束ねる組織がなかったからです。
日共の対琉要綱 – 琉球新報の社説
これまで当ブログにて昭和29年(1954年)8月30日に米国民政府(USCAR)から発表された『日共の対琉要綱』について記事にしました。当時の地元紙(沖縄タイムス、琉球新報)にこの対琉要綱に関する社説等が掲載されていましたので、しばらく数回にわたって史料として掲載します。
日共の対琉要綱 – その4
昭和29年(1954年)8月30日、米国民政府から発表された「日共の対琉要綱」は当時の沖縄社会に衝撃を与えます。そして翌日以降の地元紙(琉球新報、沖縄タイムス)には共産主義の脅威を警戒する旨の社説等を掲載しました。ただしこの指令書とやらはブログ主が思うには実に出来が悪く、本当に日本共産党からの指令か否か判断がつきにくい部分もあります。理由はいやしくも公の政党たるもの中二病を拗らせているとしか思えない人物が書きそうな文章を本気で書くとは思えなかったからです。
実際に沖縄人民党も「これはでっちあげ」と主張していて、正直なところこっちのほうが信憑性あるのかなと考えていたのですが、同年10月19日、米国民政府および琉球政府宛に日本共産党から送られた文書を読んで考えを改めざるを得ませんでした。10月20日付琉球新報の記事から該当の部分を抜粋しますので、是非ご参照ください。
【暫定】不屈さんの黒歴史で打線を組んでみた
現在ブログ主は「日共の対琉要綱」に関連する史料をチェックして記事を掲載していますが、これまで蒐集した “不屈さんフォルダー” のデータを再確認したところ、これまで(公式では)語られることのなかった逸話?が多数ありましたので、今回は軽い気持ちで彼のエピソードで打線を組んでみました。
個人的には人間らしいエピソードと思いますが、信じる信じないは読者の皆様にお任せします。では早速ですがご参照ください。
日共の対琉要綱 – その3
前回記事において、昭和29年(1954年)8月31日および同年9月1日付琉球新報に掲載された『日共の対琉要綱』の全文を掲載しました。当時の沖縄マスコミにはこの案件に関する社説などの記事が掲載されていましたが、この件に関しては後日改めて当ブログにて史料としてアップします。今回は「日共の対琉要綱」前文を読んだブログ主の感想を掲載します。
日共の対琉要綱 – その2
前回当ブログにおいて、米国民政府(USCAR)が発表した『日共の対琉要綱』の前半部(1~29項)を紹介しました。今回は後半部(30~54項)を掲載します。ちなみになぜ米国民政府が日本共産党の対琉指令と思われる書類を公開したのかを考えてみたところ、その理由はただひとつ「琉球政府に防共法を制定してほしい」意向があったからです。そのあたりの流れをブログ主が調子に乗って図解しましたのでご参照ください。
日共の対琉要綱 – その1
先日ブログ主は、宮里松正(みやざと・まっしょう)著『米国支配27年の回想』を参照中、46㌻に次のような記載がありました。
54.08.30 米国民政府のディフェンダーファー情報敎育部長は、記者会見で、「人民党が日本共産党と気脈を通じて行動していることは明らかであり、そのことは、日本共産党の指令とも符合する」と述べ、日共の指令「日共の対琉要綱」を公表した。
そこで実際に当時の新聞(琉球新報、沖縄タイムス)および仲宗根源和著『政界診断書』を照合して、全54項からなる指令書とやらを確認することができました。当ブログにて史料として提供しますので、興味がある読者の皆さん是非ご参照ください。
ただし解りにくい部分が多かったので、(小かっこ)の部分は説明を、〔きっこうかっこ〕の部分は捕捉をブログ主の判断で挿入しました。全54項は長文なので(文章の)区分けは琉球新報のそれに従って掲載します。最後に予備知識として、畠義基著『真相はこうだ』から人民党事件(昭和29年10月)当時の沖縄人民党と日本共産党との関係を掲載しておきます。