阿麻和利

阿麻和利の乱(三)

今回から「おもろさうし」から首里と勝連の関係について言及しますが、実は勝連のオモロにはおぎやかもい(尚真王)を讃える内容の唄があります。それ故におもろさうし編纂時に、王家に都合の悪いオモロはカットされたと考えたことがあります。

ただしそうなると、どうしても説明できないことがあります。それはおもろさうし編纂から数十年後に羽地朝秀が「中山世鑑」を上梓しますが、ご存じの通り同書には阿麻和利について全く言及されていません。ということは羽地の生きた17世紀には阿麻和利の乱は知られていなかったことになりますが、いまはその点には突っ込まずに、首里と勝連の “関係” を探っていきます。

結論を先に申し上げると、首里と勝連は極めて良好な関係を保っており、そのことを伺わせるオモロが複数あります。試しに下記オモロをご参照ください。

(一六ノ八) あおりやへかふし

一 かつれんの、あまわり、たま、みしやく、あり、よな、きやか、まくら、これと、いちへ、とよま

又 きむたかの、あまわり

又 しまちりの、みそての、あんし

又 くにしりの、みそあんし

又 しより、おわる、てたこす、たま、みしやく、ありよわれ

(一六ノ八) 阿応理屋恵が節

一 勝連の阿麻和利、玉御酌、有りよな。京、鎌倉、此ぞ、行って響まん。

又 肝高の阿麻和利、(一節二行目から折返、以下同)

又 島知りの御袖(みそで)の按司、

又 国知りの御衣(みそ)、按司、

又 首里、御座されるてだ子こそ、玉御酌、有り御座されい。(一節三行目から折返)

鳥越先生の解釈は、「①②誇り高き勝連の阿麻和利(人名)のもとには、香ばしい酒(玉御酌)があることだな。これこそ日本の都まで鳴りわたるものだ。③④国を治めている美しいお姿の城主、……⑤首里城のいらっしゃる国王さまは、香ばしいお酒をお持ちになっていらっしゃれよ。」となり、勝連城主が持っている日本にまで鳴り響く名酒を国王に差し上げますから、どうか召し上がって下さいの意味になります。つまりこのオモロは阿麻和利ではなく国王を讃えた内容なのです。

問題は「しよりおわるてたこ(首里、御座されるてだ子)」が誰を指すかですが、もしも尚円以降の王であるならば、阿麻和利の乱(1458)以降も、勝連城主は “阿麻和利” を名乗っていたことになります。もちろん断定はできかねますし、第一尚氏時代の尚泰久王の可能性も十分あります。

ブログ主はこのオモロによって、”阿麻和利” は勝連城主に代々受け継がれてきた聖名であると仮定しましたが、実はこのオモロはどうやら研究者泣かせであったらしく、その傍証として外間守善先生のアクロバティックな解釈をご参照ください。

勝連の阿麻和利、肝高の阿麻和利は神酒を注ぐ玉御柄酌を持っていることよ。大和の京、鎌倉にまで、これをぞいい囃して鳴り轟かせよう。島を、国を支配し治める高貴な按司様、首里にまします国王様こそ、神酒を注ぐ玉御柄酌を持ち給うのだ。(阿麻和利を首里の国王と並べて讃えたおもろ)

引用:「おもろさうし(下)」外間守善校注 – 岩波書店213㌻より抜粋

18世紀の史料を参照し、阿麻和利の乱を史実認定すると、外間先生のように読み解いてしまうのも納得できますが、さすがに「阿麻和利を首里の国王と並べて讃えたおもろ」の注釈はぶっとんでいるなと思わざるを得ません。鳥越先生の解釈のほうがすんなり理解できますが、このぶっとび解釈が

あまわりパークでも紹介されていた

のにはビックリしました。18世紀以降の史料(中山世譜、球陽など)に依存して「おもろさうし」を読み解くと “ゆがみ” が生じてしまう一例とも言えますが、だからといって外間先生の偉大な業績を否定するものではありません。現代のおもろさうし解釈にはある種の “バイアス” がかかっていることを理解していただきたいのです。

少し話が飛びましたが、次回は首里と勝連の関係を決定づけるような内容のオモロを紹介します。

阿麻和利の乱(二)

前回の記事において阿麻和利の乱を「史実認定」すると、どうしても不都合が生じてしまうこと、そして当ブログでは18世紀以前の史料、具体的には「おもろさうし」から首里と勝連の関係について推測する旨言及しました。100年以上前に偉大なる伊波普猷先生が試みた手法を採用するわけですが、伊波先生とブログ主では少し立場が違います。今回はこの点について説明します。

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阿麻和利の乱(一)

今年の8月から当運営ブログにて定期連載してきた “阿麻和利” について、今回から彼が起こしたとされる反乱について考察します。

現在の我が沖縄において、護佐丸・阿麻和利の乱は15世紀の半ばに起こった “史実” として認識されていますが、その傍証としてGrok(XのAI生成ツール)に「阿麻和利の乱について教えて」と尋ねた際の回答がなかなかの出来栄えだったので全文を紹介します。

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阿麻和利考(七)

△護佐丸はこの天嶮に據り、士馬を訓練し緩急に備へてゐた。彼は阿摩和利に取つては眼の上瘤であつたらう。しかし阿麻和利は之を除く可き機會を見出した。或日彼は魚舟に乘つて與那原の濱に上陸し、直ちに首里城へ參内して、護佐丸が謀叛の企をなす由を讒言し、王命を奉じて護佐丸を討つた。護佐丸は冤を訴へようとしたが達するに由なく、君命を重んじて敢て一矢を放たず、妻子を殺して自殺してしまつた。さて護佐丸が儒教的訓戒を守つて快く死んだ所は、やがて倫理的價値の存ずる所であらう。

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阿麻和利考(五)

△阿摩和利連の按司となつてより政蹟大にあがり、島の民擧つてキモタカの阿摩和利を謳歌し、遠近の人々皆その風を慕ふたのである。今日でこそ島は寂しい村落になつてゐるものゝの、その昔は隨分繁昌したである。當時の民謳つていはく

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阿麻和利考(三)

△阿摩和利は實にかういふ時勢に出たのである。そも〱彼は如何なる家に生れて如何にして育つた者であるか、彼れの父母兄弟に就いては記綠も口碑も之を語つてゐない。只だ彼れの靑年時代に就いて其敵者たる夏氏の由來傳が

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阿麻和利考(二)

△阿摩和利が琉球史上如何なる地位を占むるかを知らうとするには、三山時代前後の社會状態を一瞥する必要がある。さてこれまで琉球史を書いた人は、皆玉城王の晩年(十四世紀の初)に國が分れて、中山、南山、北山の三王國となつたと言ふて、さながら一の王國が分裂したやうに思つてゐるが、余はこの分れると言ふことに就いて多少疑を抱いてゐる。

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阿麻和利考(一)

かつれんはいきゃるかつれんが

しまのうちにとよませ

きむたかはいきやるきもたかが(勝連のおもろ双紙)

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ももとふみあかりの謎 その5

今回は、ももとふみあかり(百踏揚)シリーズの最終話として、現代にひろく伝わる彼女のイメージがどこで誕生したかについて言及します。実はその答えは簡単で、18世紀初頭に写本された「(おもろさうし)安仁屋本」において彼女は勝連と結び付けられたのです。

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ももとふみあかりの謎 その4

前回の記事において、「大里の下司の思い按司が節(1の29)」に登場したてるきみ(照君)とももとふみあかり(百踏揚)が同一人物である可能性について言及しました。参考までにてるきみ〔tirucimi:ティルチミ〕はてる(照)=太陽、きみ(君)=神なので、日神を意味します。

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ももとふみあかりの謎 その3

今回は “王族のふみあかり” について言及しますが、彼女に関しては巻六「首里大君、せんきみ、君がなし、百踏揚、君の辻のおもろ御双紙」の中にももとふみあかり(百踏揚)の名を冠したオモロが9つあることがよく知られています。

ところがブログ主が衝撃を受けたのが巻一「首里王府の御さうし」に掲載されていたオモロで、それによって従来の彼女のイメージが一変する事態となりました。そして彼女の名が登場するオモロをチェックして出た結論が、

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ももとふみあかりの謎 その2

前回の記事において、ももとふみあかり(百踏揚)女神官は古りうきう時代に複数存在していた可能性について言及しました。そして同女神官と島尻地方との関わりについて考察していきますが、その前に王族以外の “ももとふみあがり” について言及します。

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尚泰久王の謎

今回は、ももとふみあかりに関する人物として尚泰久王(1415~1460)の “謎” について考察します。彼は定説によると尚巴志(1372~1439)の五男で、越来の按司から第6代のりうきう国王に即位した人物です。そしてももとふみあかりの実父としても知られていますが、彼にはこれまで解せなかった謎があります。それは神號が2つあることです。

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