本日(1月7日)は昭和天皇崩御から30年です。ブログ主は毎年この日が訪れるたびに悔やまれるのが、復帰直後の天皇行幸が実現しなかったことで、当時の沖縄県民の抱える被差別意識を払しょくする最大のチャンスを逃してしまったことです。『屋良朝苗回顧録』を参照すると、天皇行幸のチャンスは二回あり、一つは昭和47年11月26日の植樹祭、もう一つが翌年5月に開催された若夏国体です。両イベントともに天皇・皇后両陛下のご臨席を慣例としていましたが、沖縄の特殊事情を鑑みて両陛下をお迎えすることなく開催されました。
コラム
新春企画 – コザ吉原社交街の現在
本日(1月2日)、ブログ主は沖縄市美里一丁目(コザ吉原社交街)の散策に出かけました。いまや旧真栄原社交街と同じく廃墟と化していましたが、アメリカ世および昭和の名残をとどめている数少ない場所でもあります。今回の訪問で一番驚いたのは、正月用のしめ縄を飾っている店舗をほとんど見かけなかったことです。なお撮影した写真はバックライトを強めに加工していますが、現在のコザ吉原社交街の雰囲気を十分醸し出していると思います。読者のみなさんぜひご参照ください。
蔡温時代の人民 – 1952年1月1日付琉球新報より
今回は元日企画の一環として、昭和27年(1952)元日の琉球新報の記事を紹介します。那覇市地区教育長の眞榮田義見さんが18世紀ごろの琉球王国の住民たちの生活について言及していますが、ハッキリ言って「グロ注意」の内容です。正月そうそうこんな話題もどうかと思いましたが、琉球王国の実態を把握する史料の一部として当ブログにて紹介します。
原文はすこし読みづらい部分がありましたので、ブログ主の現代語訳およびカッコ書きで西暦などを追加しました。あと原文で判読できない部分は●にて表記しました。ご了承ください。
新春 – 俺が調子に乗って今年最初の〈大弦小弦〉を予測してみたよ
あけましておめでとうございます。旧年中は当ブログをご訪問いただきありがとうございます。本年度も読者の皆様のご期待に沿うよう質の高い記事を配信する所存であります。旧年同様変わらぬご愛顧の程よろしくお願いします。
さて、本年最初は調子に乗って新年度の沖縄タイムスの名物コラム〈大弦小弦〉の予測記事を掲載します。去年に一度予測記事を書いてみましたが、やはり”本物”には遠く及ばないことを実感しました。らしさを前面に出すと(タイムス独特の)無理やり感が無くなり、無理やり感を前面にだすと、今度は文章のリズム感がおかしくなります。前回の反省を生かしつつ”らしいコラム”を作成しましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。
「基地反対」のレトリック
平成30年(2018年)も残り少なくなりました。今年は今回を含めて208記事を配信しましたが、よくこれだけネタがあったもんだと我ながら感心している次第です。そして〆の記事はちょっと真面目に「基地反対」について言及します。ちなみにこの言葉が一般化したのは昭和43年(1968年)の主席選挙からで、当時の社会大衆党・社会党・人民党が屋良朝苗候補を擁立する際の「統一綱領」として「基地反対」を唱えたことがキッカケです。この件に関しては屋良さんの証言がありますので、是非ご参照ください。
【速報】俺が調子に乗って明日の〈大弦小弦〉を予測してみた件
本日15時57分付「沖縄タイムス+プラス」にて『宜野湾市、県民投票不参加へ 宮古島市に続き2例目』と題した記事が配信されました。すでに予想されていましたが、松川正則市長が県民投票の関連予算を計上しないことを言明したことで、来年2月24日に実施される県民投票への宜野湾市の不参加は決定的になりました。それに伴って今回ブログ主がひさびさに調子に乗って明日の沖縄タイムスのコラム〈大弦小弦〉を予測してみました。ちょっと香ばしさに欠ける内容ではありますが、宜しければ読者の皆さん是非ご参照ください。
誤解を招きかねない表現
今年の9月15日付琉球新報〈社説〉において「琉球新報はきょう創刊125年を迎えた。明治、大正、昭和、平成の激動の時代を歴史の目撃者として記録し、県民の利益、人権を守る姿勢で報道、言論を続けてきた。」との記述がありました。琉球新報は沖縄初の新聞社として明治26年(1893年)9月15日に創刊されたことは間違いありませんが、”創刊125年”という表現は正確ではありません。理由は〈社説〉でも言及していますが、琉球新報は終刊の歴史があるからです。さっそくですが昭和15年12月18日の琉球新報の記事をご参照ください。
ファクトチェックが極めて困難なことの実例
本日(12月8日)の琉球新報を閲覧中に、緑ヶ丘保育園の事件から1年が経過していることに気が付きました。ブログ主は当ブログにてこの事件に関する記事を掲載し、「今後この事件が基地反対派や反戦平和活動家にとって「なかったことにされる」ことだけは容易に予想できます」と〆ましたが、実際に「なかったことにされる」ことはありませんでした。理由は簡単で、去年12月13日に普天間第二小学校に本当に米軍ヘリから部品が落下する事件が発生したからです。
フェイクニュースへの対策
近年ネット上でよく見かける単語に”フェイクニュース”があります。一昔前の”デマ・中傷”のことですが、今と昔との大きな違いは情報伝達の範囲とスピードで、あっという間にニュースが広範囲に拡散されることでしょうか。それゆえフェイクニュースによっていったんレッテルが張られると、それを取り除くことが困難を極めます。情報発信の自由が拡大したことによる副作用とも言えます。
琉球神話に関するちょっとした考察
今回は “琉球開闢” について言及します。というのも当ブログ開始から2年強、おかげさまで配信記事も550を超えましたが、そのなかで琉球神話を取り上げたトピックがひとつもないことに気が付きました。歴史ブログを運営している以上、琉球神話に触れないとさすがにまずいかなと思い、今回ちょっとした考察記事を纏めてみました。まずは羽地朝秀編纂『中山世鑑』から琉球開闢に関する記述を紹介します。ただし原文は読みづらい部分があるので、比嘉朝潮著『沖縄の歴史』からの現代語訳を掲載しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。
125年前の那覇港の様子
今回も笹森儀助著『南島探験』から明治26年(1893年)当時の那覇港の様子を紹介します。大正・昭和の時代の史料を参照すると、沖縄から大阪へ砂糖樽を輸送する運賃より、台湾から大阪まで輸送する(砂糖樽の)運賃のほうが安いとの記述が散見されます。ブログ主は沖縄より台湾のほうがはるかに多くの砂糖を輸出していたから(台湾 – 大阪間のほうが)輸送賃金が廉価でも引き合ったと考えていましたが、どうやらそれだけではなかったようです。先ずは下記史料をご参照ください。
125年前の首里の様子
今回は明治26年(1893年)当時の首里の様子を紹介します。笹森儀助著『南島探験』からの引用ですが、明治12年(1879年)の廃藩置県から14年、旧都の寂れっぷりが予想の斜め上を行くレベルでブログ主は衝撃を受けました。著者の笹森儀助は青森県出身で、明治26年5月11日青森を発し、青森→東京→神戸→鹿児島を経由して同年6月1日に無事那覇港に到着します。彼が首里の尚氏宅の訪問および墳墓(玉陵)の参拝を試みたのが翌日の2日ですが、その時の様子を抜粋しましたので是非ご参照ください(原文およびブログ主による意訳を掲載しました)。
Windows 10 に関する誤解について
本日付(11月23日)の沖縄タイムスに Microsoft Windows に関するコラムが掲載されていました。そのなかで気になる部分を見つけましたので全文を書き写しました。読者の皆さん、是非ご参照ください。
琉球の先人の主体性はなぜ全うできなかったのか
本日(11月20日)付琉球新報に興味深い記事が掲載されていましたので紹介します。琉球藩末期(1876年以降)の脱清人に関する内容で、先日の玉城デニー知事の訪米活動と当時の救国運動の精神とが重なって見えてくると言及していることと、清国に渡った琉球人たちが廃藩置県後も王家の復活のために尽力した行動を”琉球の主体性”として捉えているのが特長的です。全文を書き写しましたので是非ご参照ください。
自由と平等の観念に対する誤解を憂うお話
いまさらブログ主が指摘するほどの案件ではありませんが、廃藩置県以前の琉球社会において “自由と平等” という観念は全くといっていいほど存在しませんでした。先日『太田朝敷選集』をチェックしている際に、そのことに触れた箇所を見つけましたので今回当ブログにて掲載します。(今回取り上げた史料の全文『琉球新報は何事を為したる乎』は後日当ブログにて掲載します)
※令和5(2023)年1月16日、アイキャッチ画像を変更ました。4年ほど前に調子に乗って書いた “作文” ですが、令和の今日でも「うちあたい」する輩が多いと感じるのは気のせいだと思いたいです。