先月28日、名護市安和港で起こった「事故」に関して、前回の記事にて知事談話について言及しました。確かにいろいろツッコミどころ満載のコメントを発表した玉城デニー知事でしたが、彼自身は事故に対して強いショックを受け、それゆえに “痛みと悲しみ” を共有したいとの意思を感じ取ることはできました。
コラム
県民の安全に責任を持つ者として、痛みと悲しみを共有したつもりが…
既にご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、先月28日午前10時10分ごろ、沖縄県名護市安和港出口付近で、抗議活動中の女性と警備員がトラックに轢かれ、警備員が死亡、女性も重傷との痛ましい事故が発生しました。
この事故に関して、いったん抗議活動の是非はおいといて、現時点でわかっているのが
顔覚えてますし、対応考えますね (2)
(続き)前回の記事において、6月11日から勃発した “きゆな騒動” の時系列をまとめてみましたが、今回は思いつくままにこの騒動におけるブログ主の所感を書き綴ってみます。
顔覚えてますし、対応考えますね (1)
今月16日に投開票の令和6年度沖縄県議会一般選挙(以下県議選)に関して、当ブログではすでに2つの記事を配信しました。そこで今回は選挙戦においてもっとも印象に残った出来事について、ブログ主なりに調子に乗って言及します。
ぬ~が・ぬ~んち 万里一空
今月16日投開票の令和6年度沖縄県議会一般選挙(以下県議選)に関して、数日前に “奇妙な選挙” と題した記事を配信しましたが、近年稀に見る選挙結果に興味を覚えたブログ主は、今回の選挙について調子に乗って総括を試みました。
奇妙な選挙
今月16日に投開票の令和6年度沖縄県議会一般選挙(以下県議選)に関し、現時点でのブログ主の感想を記事にまとめてみました。というのも、過去の選挙と比較して、どうしても違和感を覚えざるを得ない展開になっているため、若干混乱気味なところがあります。
時代遅れになった “愛国保守”
先月28日に投開票が行われ、そしていろいろと物議を醸した「令和06年度衆議院東京15区補欠選挙」はご存じのとおり酒井菜摘候補(立憲民主党)が大差をつけて初めての当選を果たしました。
尚泰候の決断 – 番外編
これまで「尚泰候の決断」と題して、真面目な歴史記事を4回に分けて配信しましたが、今回は番外編としてりうきうの王家・王族、そして上級士族の一大特徴である “二重思考” について言及します。
皇室と沖縄社会とタブー
今月12日ごろ、「沖縄青年同盟」の活動家の訃報ニュースが県内2紙に掲載されていました。彼らが起こしたとされる「国会爆竹事件」など、彼らの活動そのものには「今更どうでもいい」との感しか湧きませんが、沖縄2紙がわざわざ活動家の訃報を、しかも追悼文(沖縄タイムス)まで掲載していた事実には強い興味を覚えました。
南城市長のセクハラ疑惑に関する報道の考察
今月4日の沖縄タイムスをチラ見した際に、気になる内容のコラム(大弦小弦、記者の眼)が掲載されていましたので、ためしに全文を写本してみました。ブログ主は特に関心を覚えなかった南城市長のセクハラ疑惑に関する案件ですが、大弦小弦の内容が余りにも香ばしかったので、ついうっかり考察記事を作成しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。
標準語の効用
今回は「方言札」に関する史料をチェックする過程で、ついうっかり「標準語の効用」について気が付いた点を簡潔ながら当ブログにて纏めてみました。
その前に「標準語」という用語について言及しますが、外間守善先生によると明治時代に言語教育の場では「普通語」という言葉が用いられ、意外にもこの語句を積極的に使いだしたのは沖縄県が最初であり、そして現代でも使われている「標準語」は昭和12~13年あたりから「普通語」に変わって常用されるようになったとのことです。
実は、大日本帝国の沖縄において、標準語の普及は思わぬ効果をもたらします。それは我がりうきう・おきなわの歴史において史上初の「全県で通用する言語」が教育機関を通じてもたらされた結果、県内に「平等の概念」が浸透するキッカケになったのです。具体的には教育勅語によって臣民(=天皇陛下の前では平等)の観念が、大正10年(1921)の町村制の改正で「法の前の平等」の概念が、そして県民の誰もがコミュニケーションツールとして「標準語」を使いこなすことで、首里や那覇、地方あるいは離島の区別なく「立身出世」する道が拓かれたのです。
大事なことなので繰り返しますが、標準語は歴史上初の全県かつ(出身地や身分などの区別なく)誰もが使用できるコミュニケーションツールです。その意義は強調してもし過ぎることはありません。事実、尚家が支配していたりうきうでは王家や王族が使う言語と、地方で使われる言葉には大きな隔たりがあり、それが「差別」の一因になっていたのです。
それ故に(当ブログでも言及しましたが)標準語教育は首里や那覇よりも地方において熱心に行なわれたのです。
そして昭和20年以降のアメリカ世時代になると、サンフランシスコ講和条約によって日本の潜在主権が認められたのを機に、復帰運動の核として教育現場で標準語励行運動が進められます。つまり、アメリカ支配への抵抗の手段として、琉球住民たちは積極的に “標準語” を使うようになったのです。
大雑把に説明すると、標準語は大日本帝国時代には新時代の言語、とくに地方民にとっては(首里民や那覇民による地方差別からの)解放の言語として、そしてアメリカ世時代は “抵抗の象徴” として用いられてきたのです。現代のおいて、我が沖縄県民は日本人としてごく普通に標準語を利用していますが、時代のよって標準語の意義が変遷していた事実は頭の片隅においていたほうがいいかと思われます。
なお余談ですが、現代では「日本の植民地的支配によってもたらされた言語」との認識で、標準語に対してマイナスイメージを持たれるごく一部の県民が存在するのも事実です。しかも興味深いことに、その手の輩に限って「琉球言語」を持ち上げる傾向があります。ただし、その琉球言語とやらは我が沖縄の身分制度が甚だしかった古代から明治12年(1879)に用いられたものであり、ハッキリ言って社会における身分差別を大前提に利用されていた “いわくつきの言葉” なんです。
つまり標準語に嫌悪感を抱く一部の人達は、平等の観念の理解に乏しいが故に「琉球言語」を持ち上げているのです。しかも、差別の象徴である首里語をベースにした「ぼくのかんがえるさいきょうのうちなーぐち」の普及に取り組むことに何ら疑問を感じていない痛い人士すら存在します。そしてこれこそ現代社会における
ほうげんふらー
の一大特徴であると特筆特大して今回の記事を終えます。
あいろむノート – 方言札(7)
(続き)6回にわたって掲載しました “あいろむノート – 方言札” シリーズも、今回のまとめを以て〆ますが、これまでの当ブログにおける説明にて「方言札」は日清・日露戦役後に新しい時代に適応すべく、教育現場から誕生した件についてご理解いただけたかと思われます。
コザの終焉
既にご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、沖縄県の玉城デニー知事は16日の定例記者会見で、2023年8月25日~9月3日に沖縄アリーナで開催された「FIBAバスケットボールワールドカップ2023」の沖縄ラウンドによる県内での経済波及効果(速報値)が107億2千万円だったと発表しました。(令和06年2月16日付琉球新報電子版より)
あいろむノート – 方言札(6)
(続き)今回は、アメリカ世時代の教育現場における「方言札」の運用について、新崎盛暉(あらさき・もりてる)先生の証言を紹介します。戦後の方言札運用について、ブログ主も伝聞ベースでは知ってましたが、それでも新崎先生の証言内容には驚きを覚えましたので、証言全文を紹介します(以下証言)。
あいろむノート – 方言札(5)
(続き)今回から2回にわけて、戦前と戦後の「方言札」に関する興味深い証言を紹介します。まず最初に、昭和16年(1941)ごろの国民学校(当時の小学校)での方言札の運用について、「那覇市史」に貴重な証言が掲載されていましたので、全文を書き写しました。