阿麻和利考(七)

△護佐丸はこの天嶮に據り、士馬を訓練し緩急に備へてゐた。彼は阿摩和利に取つては眼の上瘤であつたらう。しかし阿麻和利は之を除く可き機會を見出した。或日彼は魚舟に乘つて與那原の濱に上陸し、直ちに首里城へ參内して、護佐丸が謀叛の企をなす由を讒言し、王命を奉じて護佐丸を討つた。護佐丸は冤を訴へようとしたが達するに由なく、君命を重んじて敢て一矢を放たず、妻子を殺して自殺してしまつた。さて護佐丸が儒教的訓戒を守つて快く死んだ所は、やがて倫理的價値の存ずる所であらう。

△阿摩和利が當時首里王府の信任の最も重かつたと稱する護佐丸を讒言して立ち〔どころ〕に功を奏したのを見ると、首里王府に於ける彼の信用も又輕くなかつたと考へなければならぬ。さうでなくとも彼が戰鬪的策士の辨舌を備へてゐたといふことは認めなければならぬ。戰に拙〇る彼は遂に奸計を用ゐてその障害物を除いた。彼には最早世に憚る可き者がない。さりとて遽(すみやか)に事を發しようといふ考は〔なかつた〕らしい。彼は意外な所から急に兵を擧げるやうに餘儀なくされたのである。余はこのことに關して二三の疑点を懷いてゐる。(一)毛氏夏氏の由來傳の語る如く鬼大城(夏居數)が阿摩和利の反を知り、夜に乘じてモゝトフミアガリを負ふて、首里に逃げた爲めに已むを得ず兵を擧げたのか(二)或は鬼大城とモゝトフミアガリとの間に妙な關係でも出來てゐて、これが發覺して或は發覺しさうになつて二人で逃げ出したのが動機となつて兵を擧げたのか(三)はた又一と二が一所になつてその滅亡の時期を早めたのか、三つの中何れか一つでなければならぬ。

△兎に角阿摩和利は、準備のまだ整はないのに首里城を圍み、に鬼大城の〔逆〕にあつて、連城邊海浪激し〔松〕風荒むところに空しく逆臣の醜名を無期に傳ふるに至つた。先輩太田天南氏の「阿摩和利征討記」はこの戰況を叙することが至つて細しい。

△鬼大城は勝連城に盛を血祭りをして、目出〔度く〕凱旋した。「王大に大城の勞を稱して、特に紫冠の位を授け、且つ阿摩和利の器物並に勝連城の門城を悉く大城に賜ふ」た。又阿摩和利の妻であつたモゝトフミアガリをも賜ふた。

モゝトフミアガリが其夫を殺した鬼大城に身を許したのは、ワグネルの作にあるイソルデが其將來の夫を殺した仇であるトリスタンとはかなき契を結んだのに似てゐる。鬼大城にはに正妻もあつたのに、彼女はかまわず嫁したのである。アゝ可憐なるモゝトフミアガリ!思ふに二人の關係は、連城にゐた時に始まつてゐたのであらう。そしてこれが直接或は間接に阿摩和利滅亡の一原因になつたと斷言するもち臆斷ではなからう。鬼大城をモゝトフミアガリ(踏揚按司)との間に出來た子の後裔なる摩文仁(殿内)の佛壇には、二人が連城を逃げ出した時の繪があるさうだ。モゝトフミアガリは實に詩人の好題目である。

△つら〱阿摩和利の人物を見るに、何となく古英雄の面影がある。もし彼をして三山時代にあらしめたならば、彼は巴志や樊安知と鹿を中原に爭ふたであらう。さりながら三山旣に一統せられて、世は又古英雄を要しないようになつた。これはた阿摩和利を失敗させた條件の一である。この時首里城内に在つて、高所で阿摩和利の活劇を見物して微笑を漏〔ら〕したのは、當時四十三歲の尚圓であつた。此人こそ〔は〕天が乱後に沖繩を整理すべく遣つた唯一の經世家である。阿摩和利の活劇は畢竟するに尚圓のドラマの序幕たるに過ぎない。余は他日筆を改めてこの小家康を紹介せうと思ふ。この「阿摩和利考」はやがてその緒論である。さて余はここに

「阿摩和利は沖繩最後の古英雄なり」

の一言でこの篇を結ばう。(六月廿二日、千駄ヶ谷の寓居にて)