阿麻和利考(五)

△阿摩和利連の按司となつてより政蹟大にあがり、島の民擧つてキモタカの阿摩和利を謳歌し、遠近の人々皆その風を慕ふたのである。今日でこそ島は寂しい村落になつてゐるものゝの、その昔は隨分繁昌したである。當時の民謳つていはく

かつれんは てだむかて ぢやうあけて

またまこがね よりやう たまのみうち

きむたかの 月むかて

かつれんは けさむ みやも あんじえらぶ

連(城)は日に向うて門を建てゝ、千珍萬寶寄り合う玉の御殿ぞ(キムタカの阿摩和利月に向うて門を建てゝ)、連は古往今來(こおうこんらい)按司を擇び、良主を得との意である。この堅城を控へ、この名主をきし島の民は意かばかり滿足してゐたらう。尚眞王以前にあつては、謂百姓より出でゝ一城の主となるも敢て珍らしくはないが、尚泰久王をして遠くその妹モゝフミアガリを遣りて、親と成さしめたる阿麻和利はとにかく〔琉球の〕豪傑たるを失はない。例の由來傳に

〔去る程に〕尚泰久王阿麻和利の才能人に過ぎたる由聞し召し、即ち婚姻を約して一家のよしみを結び玉ふ。かくて後日翁主踏揚按司勝連に嫁ぐ。時に王母、王に會(かいし)て曰く「阿麻和利の生育才能人に勝れて尤も吉也。然れども吾疑ひ思ふには彼れ王の婿になさば其勢を挟み驕心(おごるこころ)起て患(わずらい)をなさん事〔計り難〕し。且彼の地都遼遠の所なれば變事有れ〔共〕知り難し。因て吾心未だ悅びず。誰ぞ檢見(けみ)の爲め武士一人竊に遣すべし」との玉ふ。王母の御心を安め奉らん爲めに、王即ち鬼大城に命じて其臣士となし翁主に附膸して勝連に赴かしむ

と言ふことがある。王母の心配は或はあつたであらう。されど王は甚しく阿摩和利を信用してゐたのである。もし王がいや〱ながらモゝトフミアガリ(踏揚按司)を勝連に嫁(とつが)せしむるの類で愈阿摩和利の勢力の侮るべからざる者があつたといふ証據になるのである。天啓(年間:1621~1627)のおもろ双紙に

もゝふみあがりや けさよりやまさり

もゝちやらのぬしてだ なりわちへ

きみのふみあがりや

志よりもりぐすく

またまもりぐすく

(踏揚按司よ、先よりは勝り百按司の主君となられてよ)といふオモロがあるが、大方モゝトフミアガリの輿入れの時分に、良配偶を得たのを祝福したものであらう。阿摩和利の得意思ふべし。(明治38年7月17日付琉球新報2面)