阿麻和利考(三)

△阿摩和利は實にかういふ時勢に出たのである。そも〱彼は如何なる家に生れて如何にして育つた者であるか、彼れの父母兄弟に就いては記綠も口碑も之を語つてゐない。只だ彼れの靑年時代に就いて其敵者たる夏氏の由來傳が

北谷間切屋良村に加那といふ者あり。幼兒の時身弱く何の用にも立たず。長じて後力量人に超え性質尤も奸侫(かんねい)にして只だ人々の田を耕し己が田を耕さず。淫を好んで家業を修めず。故に村人阿麻和利加那と呼ぶ云々

と記してゐるばかり、もとより阿摩和利に取て都合の好い記事ではない。されど其の中にも亦彼れの面影が見えないのではない。著者は阿摩和利加那をアマリ加那即ちワンパクモノの加那と〔い〕ふつもりで書いたであらうが、村の人々は之を天降加那即ち神童加那のつもりでいつたのであらう。而して彼が誅された後アマンギヤナを訛つて遂に世人の耳に惡る者と響くに至つたのであらう。この名義のことは後に細〔=詳〕しく述べよう。種々の記事や口碑を總合して考へて見ると、彼は夙に家を飛び出して浪人の生活を送つてゐたやうにも思はれる。又「只だ人の田を耕して己が田を〔耕〕さず」言ふ所などは、能く彼が好人物であつたことを偲ばしむる。又蜘蛛の巣から思ひついて網を發明して漁民に敎えて人望を得たといふ口碑もある。とにかく彼が己を忘れて人の爲にするといふ心は、やがて彼をして勝連半島の主人たらしめし所以のものであらう。夏氏由來傳に

近邊同列の少者數十人あり。或日村人加那が家に來て問て曰く、吾等汝に大恩あり。此に因て其恩を報ぜんと欲す。願くは汝が望を聞かむ。加那答て曰く、……

とあるを見ても、彼が如何に人に愛されてゐたかといふことがわかる。實に彼れの知己朋友は彼の爲には身命をも惜まなかつたのである。

△恰もよし、當時勝連の城主茂知附按司が酒食に沈つて政治を怠〔り〕、おまけに百姓をいぢめたので不平の聲が全半島に漲つた。この頃「按司加那が餘才あるを知りて乃ち用ゐて頭取となす」といふこともあるから、阿摩和利は城内の事狀にも通じてゐたものと見える。義侠家なる彼は百姓一揆の頭となつて勝連城へ闖入し暴君を殺して人民を塗炭の苦から救つた。人生感意氣功名誰復論(人生意気に感ず、功名誰か復た論ぜん)といふ詩句は能々この時の彼の心時を形容することが出來る。彼が茂知附按司を殺した手段に就ては二つの說がある。即ち一は夏氏由來傳は左の如く記してゐる。

加那大に喜び後宮に入て見れば美を盡し善を盡す。是に於て坐を設け美女を集めて酒宴をなす。從者も我先にと庫内に打入り金銀財寶を分捕り喜ぶ事限りなし。是に因て王之を許して勝連按司に封じ給ふ云々

一揆の頭は一朝にして勝連の按司になつたのである。他日阿摩和利が更に大なる成功でもしてゐたら、彼を傳するものは如何なる筆を以てこの光景を寫したであらう。(明治38年7月13日付琉球新報2面)