△阿摩和利が琉球史上如何なる地位を占むるかを知らうとするには、三山時代前後の社會状態を一瞥する必要がある。さてこれまで琉球史を書いた人は、皆玉城王の晩年(十四世紀の初)に國が分れて、中山、南山、北山の三王國となつたと言ふて、さながら一の王國が分裂したやうに思つてゐるが、余はこの分れると言ふことに就いて多少疑を抱いてゐる。
余はこれらの三地方が各自に發達して、此時代にそれ〱國家の形態を取るに至つたと見るのが穩當であると思ふ。勿論この以前に於ても全島を統一せる主權者がゐるやうな觀は呈してゐたが、これは所謂阿摩美久派の宗家の系統をひける中部の主權者であつて、他日全島を統一すべき傾向を有してゐた者であらう。又後日全島を統一したのもこの派の者であるから、いよ〱全島がもと〱其有であつたらしく思はるゝに至つたのであらう。
△國頭、中頭、島尻三郡の民の心質体質の上から多少區別されるのみならず、土俗學的にも亦區別されることを見たら、彼の三山鼎立の如きも亦偶然ではないといふことがわかる。これらの人民がいつ何處どうして來たかと言ふ問題は暫くおいて、もと彼等の中には幾多の小區分があつて各部落皆强者を推して酋長としてゐたが、生存競争の結果幾回かの分離合併を重ねて、十四世紀の初つ方に遂に三個の固りにまで凝結したものと思はれる。此は琉球史の事蹟より見ても、社會学の原理に照しても間違の無いことである。かういふやうに三個の〔〇〇〇〇〇〇〇〕したのを從來の史家は沖繩が三山に分裂したと言ふてゐる※
※この一節は「古琉球」ではカットされています。なお、〔〇〇〇〇〇〇〇〕の部分は印字が潰れていたので判読できず。
△三山が出來て以來割據鼎立九十年の久しきに、中山王察度の慧智も未だ之を一統することが出來なんだが、後二十有餘時佐鋪(=佐敷)の小按司と呼ばるゝ巴志は月城から起つて之を一統した。是れ沖繩空前の鴻業を成したのである。沖繩は旣に爭鬪の時代より政治の時代に入つたのである。今や古英雄漸く老いて、政治家を要するの秋となつた。巴志は三十二歲にして兵を擧げ、五十七歲にして三山を一統し、六十七歲にして此世を去つた。この間内治の効績大に擧り、外交も漸く起つたが、之を引き續ぐ經世家がゐなかつた(而して當年二十五歲の金丸は、妻子と共に其鄕里伊平屋島を逃れて國頭へ渡つたばかりであつた)。尚巴志死してより僅十五年の間に四回國王が代り、おまけに王位繼承の小乱等があつて
月城の守り 世高さの眞物 美影照り渡て さびやないさめ※
※意訳:佐敷の守り神である世高真物よ、(彼の)美しい影が(世の中に)照り渡って、(それ故に)災いは起こらないことだ。
と謳はれた尚巴志(世高眞物)の王統は漸く瓦解すへき前徵を顕はした。その時に當つて北谷間切屋良村の一平民加奈といふ者が起つて勝連半島を押領した(今日の與那城間切は延寶四年今より二百二十九年前、勝連間切を割いて置いたので、阿摩和利時代には全半島を勝連と言つてゐた)。尚泰久王は加那に對して勝連按司となした。これが所謂阿摩和利である。首里を離るること僅か六七里の所でかういふ事を演せしめて、而も之を制することが出來なかつたのを見ると、當時は單に三山の區割が破壞されたのをみて、中央政府の政令は汎く行はれてゐなかつたと言ふことがわかる。當時勝連半島で起つたやうな事件は他の地方にも起つてゐたと想像することが出來る。(明治38年07月11日付琉球新報02面)