阿麻和利考(一)

かつれんはいきゃるかつれんが

しまのうちにとよませ

きむたかはいきやるきもたかが(勝連のおもろ双紙)

△凡そ史上の人物を究するに當つては、感の尺度を棄てゝ理性の尺度を用ゐねばならぬ。楠木正成を忠臣として崇拜するなどは、感の尺度で量つた結果で、足利氏を偉人として價するなどは理性の尺度で量つた結果である。前者には倫理的の價値が多く、後者には史的の価値が多い。余がこゝに阿摩和利を究しようとする以は、只だ彼れの眞相を紹介せうとするにあつて、之によりて護佐丸公の倫理的價値を否定しようとするのではない。明治卅一年の夏、田島隨庵氏が『阿摩和利加那といへる名義』なる一篇を沖繩靑年會會報に掲げて物議を釀して以來、また阿摩和利の事をかれこれ言ふ人はゐないが、阿摩和利は果して毛夏二氏の由來傳に依つて傳られしやうにそれ程惡い奴であつたらうか。

△實に田島氏がいへる如く、阿摩和利が獨り逆臣の名を專にしたのは、無論成敗の結果ではあるが、また後の王代記などの傳播を遮りしき單に敵者たる二氏の由來記に依つてのみ其事蹟の傳へられしと、其の他俗間に理外の勢力を有する組躍に二童敵討のあるにも因るだらう。羽地王子向象賢が始めて琉球の正史『中山世鑑』を編纂した時に、この大事件たる勝連の乱を記さなかつた所に深い意味の有ることを知らねばならぬ。阿摩和利護佐丸の事は『中山世譜』に至つて始めて之を傳へ、『球陽』亦之を引用した。彼の毛夏二氏の由來傳に其資料を採つたのである。かくて四百年の間に阿摩和利の善い方面は漸々忘れられ了ひ、其惡い方面は段々言ひ擴げられて、今日吾々が見るやうな阿摩和利となつた。故に阿摩和利の眞面目を知らうと思へば、この四百年間に附加した雜物を篩ひ落すと共に、その埋もれた部分を發掘しなければならぬ。

△この掘出物は則ち天啓三年に編纂した連のおもろ双紙である。此は阿摩和利の光明なる面を語る唯一の史料である。いつかもべた通りおもろ双紙は廿二冊歌數總べて千五百五十三首西歷千二百四十年頃から六百四十年頃まで殆ど四百年間のオモロを收めたので、琉球の古語や歷史究するに缺く可らざる資料である。天啓三年は阿摩和利の滅亡後七十三年(今より三百七十餘年前)で、連半島の民はこの時に至るまでなほ、阿摩和利を追慕してゐたのである。余はオモロの光によりて琉球史上に於ける阿摩和利の位置を明にせうとおもふ。(明治38年07月09日付琉球新報02面)