琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと 番外編その2

大正時代の神女

歴史上で確認できる最初のユタの禁止令は1673年(延宝元)の羽地朝秀の仕置に記載があります。

国中仕置相改可然儀は大方致吟味国司江申入置申候、前々女性巫女風俗にて多候故、巫女の偽に不惑様にと如斯候、今少相改度儀御座候得共、国中に同心之者、無御座悲嘆之事に候、知我者北方に一両公御座候事。(国中には前々から女性でユタをしている者が多数いるから、その偽わり言に惑わされないよう改めるべきである、ただしもう少し改めたいことがあるが国中には賛成するものがない。悲しみ嘆くべきことである。自分を知っているものは、日本に1,2人ある。) 

意訳は沖縄女性史(宮城栄昌著、1967年刊行)から抜粋しましたが、手腕家の摂政であった羽地ですらユタの問題には手こずったことが分かります。ユタ問題のやっかいな点はその影響力が社会階層の隅々にまで及んでしまうことです。具体的には上級士族から百姓に至るまでユタの神託を信じないものはいない状態で、神女の最高権威である聞得大君ですらユタの神託に頼る有様だったのです。

1712年(正徳二)には、首里赤田村で仁徳という者の妻が巫術で住民を惑わし、自ら神を名乗る事件が発生します。面白いのは士族ですらその巫術にころっと騙されてしまい、おかげで仁徳夫婦はユタ商売で大儲けをしたそうですが、最後には王府に身柄を拘束されて斬罪の刑に処せられます。

琉球王府時代の首里は学問の盛んなところで、男性は6歳ごろから村の学校に通って儒学などの漢学を講義を受けるのが慣例でした。18世紀になると士族の間では儒学が盛んになって旧来の迷信には冷淡になる傾向があったにも関わらずこんな意味不明な事件が起こってしまうところがユタ問題の恐ろしさです。

その後は聞得大君がユタの神託を信用して、三司官と大もめに揉めた事件や、首里城内に多くの神々が祀られるようになったために大勢のユタを処罰する事件が発生したりと、ユタに関する事件はどちらかと言うと上級士族側に多かったようです。そのたびに王府が禁止令を連発するのですが、残念ながらちっとも効果ありません。(続く)

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