少し長くなりましたが、琉球王国(あるいは琉球藩)の時代において、女性が文字を読めずに学問の世界と無縁であることの弊害について説明しました。その弊害は繰り返しますが
1.18世紀以降、那覇において小売業は発展したが、女性の経営者がついに誕生しなかったこと
2.行動様式が旧態依然で、なかなか伝統的な発想から脱却できなかったこと
になります。とくに2番が重大な弊害で、伝統主義的な思考法の最大の欠点である「新しい時代への対応」が男性にくらべて決定的に遅れてしまったのです。
1879年(明治12)の廃藩置県以降の沖縄社会においてほとんどすべての女性が文字の読み書きができるようになったのは大正末~昭和に入ってからです。実は男性も全県レベルで文字の読み書きができるようになったのは同時期なのですが、男性は廃藩置県当初から開化党の子弟たちを中心に高等教育が施され、その後彼らを中心として旧慣を改める動きが活発になります。太田朝敷先生や伊波普猷先生あたりがその世代です。
女子の場合は高等教育を受けた世代が社会の風俗改良運動などに取り組みだしたのが大正時代になります。廃藩置県から30年以上経過してようやく沖縄県内の女性たちが社会活動に積極的に取り組むようになります。象徴的なのが大正時代に読谷山村(現在の読谷村)で結成された沖縄初の地域婦人会ですが、そこに至るまでの期間が長すぎます。それまでの沖縄県内の女性は琉球王国時代の旧慣習に従って生活するしかなかったのです。
琉球王国時代の慣習によって後世まで残した弊害は多々ありますが、女性が文字を読めずに学問の世界から無縁だったことは最大級の弊害と言っても過言ではありません。男性だけの力では社会はどうしても行き詰ってしまうのです。琉球王国末期がまさにその典型です。
大日本帝国時代の政策における最大の功績は土地制度を含む近代法の施行、言語の統一、そして女子教育の普及です。過失は日本臣民の作成を急ぐあまりに地域文化を軽視したこと(これは沖縄県に限らず)ですが、現代の歴史教育では過失についてのみ取り上げ過ぎです。当時の日本人たちの功績をもっと正しく伝えないといけないですが、そうなると現代の歴史教育のイデオロギーである「沖縄は薩摩の侵略以降400年間ずっと差別されてきた」の前提が崩れてしまうため、現状ではどうにもなりません。だからブログ主が調子に乗って記事を配信せざるを得ないのです。(終わり)。