おくやみ欄と暴力団 – その2

前回「おくやみ欄と暴力団」と題した記事を配信しましたが、実はそのほかにも沖縄ヤクザ関連のお悔やみ記事を入手しましたので紹介します。正直なところ掲載されている人物のメンツがあれなので当初は公開をためらったのですが、戦後沖縄社会を伺う上で一級史料であるのは間違いありません。そのためブログ主判断で公開しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。

昭和50(1975)年10月16日那覇市内で又吉世喜旭琉会理事長が射殺されましたが、翌17日の琉球新報3面にお悔やみ記事が掲載されていました。親族関連はモザイク処理しましたが、友人代表の面々が実に興味深いです。

真っ先にブログ主の目を引いたのが、又吉理事長とは長い付き合いだった喜舎場朝信さんの名前がないことです。確認した限りでは喜舎場さんは昭和51年10月に亡くなってますが、又吉理事長だけでなく新城喜史さんのお悔やみ記事にも名前が掲載されてません。この辺りの事情は定かではありませんが、このお悔やみ記事は彼が何らかの事情で沖縄ヤクザ社会から一線を引いていたことの傍証になるかもしれません。

※喜舎場が亡くなった年月日については、確定史料がないため、横線消去しておきます。

次は友人代表のトップ3ですが、赤嶺嘉栄(あかみね・かえい)さんは上地流空手の大物、宮城嗣吉さんは説明不要の沖縄空手会の超大物、仲本清智さんは那覇劇場の経営者で有名です。空手・芸能関連の人物が友人代表の最上位に掲載されているあたりに時代を感じますが、さすがに又吉理事長の空手の師匠である宮里栄一さんの名前はありません。

次に旭琉会関係ですが、古参かつ最高幹部クラスはブログ主が知る限りでは下記参照ください。

・仲本善忠:沖縄連合旭琉会の初代会長

・具志向盛:糸満を拠点にしていた那覇派の大物。かつて彼が糸満署に検挙された際に「選挙活動を手伝ってもらった」ことを理由に食事を差し入れした立法院議員さんがいました。

・糸村直亀、糸数宝昌:山原派の古参かつ中心人物。

ほかに目をひくのが、多和田真山、照屋正吉、西江仁佑、翁長良宏、羽地勲、仲程光男さんあたりです。そして富永清さんも友人代表として掲載されていますので、彼は昭和50年ごろには旭琉会の幹部クラスに出世していたことが分かります。ただし岸本兼和さん(山原派で次期会長の最有力候補)と座安久一さん(山原派)の名前が掲載されていないのは意外な感があります。

ほかに親族関連ですが、某運輸会社(自主規制)の初代社長と現会長の名前が掲載されているのはちょっと洒落にならないと思いました。

最後にこのお悔やみ欄は琉球新報の3面に掲載されていましたが、同日の2面にはお約束のごとく「組織暴力の追放」の社説が掲載されていました。自分の紙面から暴力団を追放しないあたり正直でよろしいと思わず突っ込んでしまったブログ主であります(終わり)。

追記:社説は全文書き写しましたのでご参照ください。

社説組織暴力の追放と市民

十六日に発生した暴力団・旭琉会理事長射殺事件は、残忍な暴力団抗争の根強さをみせつけたものであり、また無法組織のはびこる社会の荒廃を痛感させる。殺しには殺しをもって対応し、手段を選ばぬ主導権争いに明け暮れるのは、まさに暴力団の論理であろう。幸い一般住民への被害はなかったものの、ギャング映画を地で行くようなピストル乱射が静かな住宅街で起こっている。それだけに今後、善良な市民が巻き添えをくう恐れもある。暴力団の根絶は当局の取り締まりの強化と、このような暴力組織がはびこることを容認する社会的背景を県民自ら考えなければ実現困難である。

組織暴力団は、全国的に広域化し、その組織も肥大化してきており、警察当局の厳しい取り締まりでもなかなか根絶できない実情にある。沖縄の場合は、本土の暴力団進出に対応して、組織再編がなされ、抗争が絶えなかった山原派、那覇派が合体し、旭琉会が誕生した。同会は構成員数が東声会をはるかに上回る暴力団へと発展したものの、上原一家との内紛に端を発して、新城義史理事長(山原派)の射殺、ついで上原一家組員の国頭村楚洲山中での殺害事件、こんどの又吉世喜理事長の射殺事件と抗争はエスカレート、これまでに六人が殺されている。

本土で続発している対抗組織の争いとは違い、主導権争いともいえる内部抗争だが、しょせんは暴力を手段とする集団だけに一般組織のようにまとまりを保つことが困難な実態をさらけ出した。もっとも現段階では内部の者による犯行か、他組織による犯行かわかっておらず、警察の捜査結果を待つ以外ない。しかし、このことが殺害事件という事案、反社会的組織による犯罪が一般社会に及ぼす影響などを考えた場合、事件の重大性にはさして関係ない。とにかく、やらなければやられるという殺しの論理が実際に繰り返されている組織、その組織の存在こそが問題である。暴力、殺害の手口も素手によるものから日本刀、短銃などへ凶暴化してきており、一般市民を巻き添えにする恐れも広がりを持ってきている。

組織暴力は”企業暴力”という名称で呼ばれる場合もあるように合法的な経済活動の手続きを経て利益を追求し、他面でその正体ともいえる本質的な犯罪行為を繰り返している。この資金源によって組織を運営しているわけだが、警察の取り締まりが厳しくなればなるほど巧妙な組織運営をはかりつつあるのが最近の特徴でもある。したがって大胆、非情な犯行をする一方、市民生活の中で目立たず、さして抵抗なく、しだいに太って行くという習性も持つ。

暴力集団の反社会的な組織であるという認識は一般的であるが、市民生活の中でなんらかの形でかかわりを持つという根源の深さは意外と見落としがちである。暴力行為への怖さから、かえって暴力団の思うままになり、その不法な行為を黙認せざるを得ない現実は無視できない。これは市民一人ひとりの勇気に期待するにこしたことはないが、実際には厳しい注文である。結局、取り締まり当局の強い対応が必要だが、市民の生命を守り財産を保障する警察機能が残念ながら安心し、満足できないのが実情である。

厳重な警戒態勢の中で暴力団による事件が発生する例は多く、その残忍さ、大胆さ、巧妙さが警察の予想を上回った犯行になる。市民による自衛行動も各地で盛り上がりはするが、それも限界がある。税金で賄われている警察がその機能を十分発揮することに望みをかけるほかない。市民の暴力団根絶のための役割といえば、このような組織が存在しうる社会的な要因、その背景を十分認識して対応することだ。

暴力事件、犯罪の多発はその地域の民生レベルとも無関係ではなく、政治の目をもっと向ける必要がある。正義の味方、頼れる警察の存在と政治、それに県民の認識が一体となってこそ、組織暴力は追放できよう。(昭和50年10月17日付琉球新報2面)