現存する最古の太田朝敷関連の史料

今回は現時点で確認できる最古の太田朝敷先生の史料を紹介します。沖縄県立図書館で公開されている明治27(1894)年12月16日付『琉球新報』の中に “大田朝敷” 名義の署名広告と国頭地方を巡回視察した記事、および日清戦争に関する記事が掲載されてました。平成5(1993)年以降に刊行された『太田朝敷選集(上・中・下巻)』には掲載されていない史料になりますが、それは同記事の発見が2000年以降であったのが理由で、もしかすると今回初めての一般公開になるかもしれません。読者のみなさん、是非ご参照ください。

明治27年12月16日付琉球新報4面

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小生巡遊中は到る處御懇篤なる御待遇に預り視察上非常の便宜を得稍滿足なる視察を遂け一昨日無事致歸社候巡遊地方諸君の御厚意一々御禮可申上の處御宿所伺ひ漏れの御方も有之候に付乍失禮以紙上奉鳴謝候頓首

明治廿七年十二月十日 大田朝敷

巡遊地方辱知諸君

『太田朝敷選集(下巻)』の年表を参照すると、明治27年ごろに太田先生が国頭地方を巡回視察したとの記述があります。上記の広告はその事実を裏付ける内容であることと、”大田朝敷” の名義で署名されているのがポイントです。いつ頃から”太田朝敷”と名乗るようになったかは不明ですが、この史料から琉球新報創刊時は大田と名乗っていたことが確認できます。

明治27年12月16日付琉球新報3面

● 國頭間切事情一斑(四)

運輸交通 前項道路の件に於て記述したるか如く國頭間切の道路は實に嶮悪無比にして一言を以て評すれは七八分は天然にて人工を加へたるものは二三分に過きさる位ひの有様なれは陸の運輸に至りては實にはかなき有様にて山原船に依頼するにあらされは些少の物品たりとも到底この間切に入るを得さるなり故に夏季南風の打續く時冬期北風の打續く時は芋蘇鉄味噌の如き土地に產する僅々たる生活品の外には影も止めさること間々これありと云ふ知識の程度か實に低きことなれは交際上又は諸事の關係少なく随つて他村他間切と往來すること稀なり

信仰心 殆んと國頭地方一体の風習として山神を信ること實に厚きか就中國頭間切にては甚しとす例へは盗難ある塲合に於ては村中に觸れ廻はりて神の宣託を請ふと云へは盗賊は神罰を恐れて忽ちに白狀するなりこの外如何なる悪事なりとも神の前に於ては隱蔽すること能はさるなり敎化未た洽からす道義未た全からさる社會に於ては實に德義心の●の鉄鎖と云ふへし

上記資料は署名記事ではありませんが、同年に国頭地方を巡回視察したことを事実から見ておそらく太田先生が執筆した記事と見做してもいいかもしれません。

明治27年12月16日付琉球新報2面

●分捕品來れり

別項雜報に記載する如く此度の戰爭に於て我鋭なる軍隊が分捕りたる所の敵の軍需品は南陽舘に陳列して以て本日より公衆の縦覧を許すことゝなれり世界の事 疎きものは成歡以來大戰小戰旣に十餘回連戰の報に接するも信を置かさるものありこれ等の徒は畢竟支那の大と信じて我强を知らさるより起りたるの迷想なり彼の分捕品を見れは支那の大なることは自ら明かなれとも我强力か彼の大と制するに餘りあることも亦自ら明かなり夫支那は大なり然とも大豈に常に賴に足らんや江湖諸君彼の分捕品を一覧せは我輩の言の誣言にあらさるを知るへし

この時事評論も署名記事ではありませんが、太田先生が執筆した可能性があります。日清戦争当時の開化党および琉球新報社員の絶頂ぶりは大正6(1917)年9月24日付『琉球新報』の記事が一番参考になりますので、試しに下記引用をご参照ください(ブログ主にて旧漢字等を訂正済み)

成歓、牙山の戦捷(せんしょう)を始めとして海陸の戦況を報道する毎に、同人の得意は今日よりとても想像が出来ない。その得意たるや一種特別の快感から来たのである。支那に対する敵愾心が全国に漲ったのは勿論だが、それが最も高潮したのは本県に於ける開化党と云ふも敢て過当の言ではあるまい。就中(なかんずく)我が同人の如き本県当時の状勢を他府県のそれに対比して事々物々長大息に堪へず一意これが革新に努力しつゝある際で、しかも此(れ)が革新を妨ぐるものが支那思想の外にないと認めて居たからその思想の本家に大打撃を喰(くら)はすことは実に痛快であった。加之(これにくわえて)に内に於ては支那崇拝の頑固者流に対し奸面當(いいあてづら)と云ふので、愈々(いよいよ)得意になり遂には紙面丈けでも満足せず郡部に乗込んで戦況を説明したことさえあった(下略)。

引用:大正6年9月24日付『琉球新報』1面

大正4(1915)年に琉球新報社に入社した又吉康和氏によると「若い時分は圭角(けいかく)の性格で…」と証言しており、それに加えて日清戦争の報道が太田先生を始め琉球新報の社員たちを有頂天にさせたことが伺える内容です。

いかがでしょうか。同新聞にはほかにも興味深い記事が掲載されていましたが、今回は太田先生関連の史料だけを掲載しました。最後に琉球新報1面のデジタル画像を貼り付けて置きますので、興味がある方は是非ご参照ください(終わり)