今回はアメリカ世の時代(1945~1972)における事件・事故の記事を2つ紹介します。沖縄タイムス社が編纂した『沖縄年鑑』からの引用ですが、ちょっとツッコミを入れたい気分になった内容です。読者のみなさん是非ご参照ください。
最初は水難事故関連の記事です。沖縄では毎年夏場になると水難事故のニュースが紙面を賑わすようになりますが、昭和38(1963)年の関連記事を参照すると、(悲惨な事故にも関わらず)じわじわくる内容でしたので全文を紹介します。
水難事故
‣六三年七月から六四年六月までの一年間に水難事故で死亡したのは四十一人、月別には夏場が多く、六三年七、八月だけで十五人、六四年は六月に六人の水死者を出している。そのほとんどが友人同士水泳に行き深みにはまったとか、幼児の水遊びによる事故、こうした事故は年々、多くなる傾向にある。
スーパーマンまね、飛込み水死
六四年三月十四日午前十時半、読谷村字瀬名波●●●、部落所有の溜池で、字瀬名波●●●、〇〇〇〇さん(三一)の三男〇〇君(六つ)が友人二、三人と遊んでいるさいスーパーマンのまねをして水中に飛び込み水死した。
引用:沖縄タイムス社編刊『沖縄年鑑 – 1964年』184㌻より
補足すると当時は被害者の本名や現住所なども普通に公開していましたが、バカ正直に “スーパーマンのまね” と記載しなくてもいいのではと心中突っ込まざるを得ません。現代なら人権団体が激怒しそうな記事でもあります。ちなみに “部落” という表現にも時代を感じさせるものがあります。
次は昭和41年から42年にかけての沖縄ヤクザ関連の記事です。
暴力団泡瀬派が解散
暴力団抗争事件 六六年六月から実施された警本の組織暴力団取り締まりは着々と効果をあげた。『頂上作戦』とよばれる新戦法で暴力団泡瀬派に相対し次々と幹部クラスを逮捕した。幹部逮捕とアジトへの手入れが波状的にくり返され、泡瀬派はついに組織を解散する羽目に合されたのである。
しかし、泡瀬派が解散したとはいえ、山原派、那覇派などの組織は依然として勢力を持ち続け、さらに那覇派から分立した新しい㔟力・普天間派が台頭してきた。しかも普天間派は泡瀬派の縄張りと残党を吸収しようとしたことから那覇・山原連合派と新しい抗争事件の種をまいた。泡瀬派をつぶしたら縄張りがそっくりころがり込んでくると思っていた山原派は普天間派という新しい暴力組織の出現で大あわて。那覇派もまた、普天間派に分立した幹部の勢力を那覇市内から追い出そうとたくらみ山原派と利害が一致、普天間派対那覇・山原連合派の抗争事件に発展したのである。そして暴力団抗争事件は新しい局面を迎え、普天間派幹部射殺事件、同親分射殺事件へと発展していった。
ちょうどその時分、中部で活躍していた警本の組織暴力特捜班は二・二四立法院包囲事件の捜査のため那覇に呼び戻され、抗争事件は火に油をそそいだごとく激化の一途となった。そして六七年にかけては警察もあってなきが如くで、捜査網をくぐられて高飛びされたり、警戒の裏をかかれてなぐり込み、短銃の撃ち合いを演じたり、急襲すればもぬけの空であったりで警察内部に暴力団と内通している者がりのではとうわさされたほどである。
引用:沖縄タイムス社編刊『沖縄年鑑 – 1968年』290㌻より
第二次沖縄抗争の終結と、第三次沖縄抗争についての説明記事ですが、明らかに太字部分の内容がおかしすぎます。二・二四立法院包囲事件(教公二法阻止闘争)とは昭和42年2月24日に起った事件ですが、デモ隊の主役であった教職員会たちがどれだけ暴れまくったのか、そして当時の沖縄社会の治安を(結果的に)悪化させたのが伺えて複雑な思いを禁じ得ません。
参考までに山平重樹著『旭龍 沖縄ヤクザ統一への軌跡 – 富永清・伝』(幻冬舎アウトロー文庫)のなかで、当時普天間に乗り込んだ富永清さん他山原派組員が根拠地にする予定のビリヤード場を掃除したところ、薬きょうがバケツ一杯ほど見つかったとの記述がありました。普天間署には警官が常駐していなかったという洒落にならない話もあります。もしかすると善かれとして行った行為が結果として悪い方向に導いてしまったのが二・二四立法院包囲事件(教公二法阻止闘争)の真相なのかもしれません。(終わり)