琉球王国の時代は間切や村を領有する王子家・地頭階級は首里に居住し、士族の大半を占める無禄士族は首里、那覇、久米、泊に居住していました。彼らは直接農村に出向くことがなかったので奉公人は琉球王府の地方行政にとって欠かせない存在でした。
琉球・沖縄の歴史上で奉公人の教育を受けた著名人は謝花昇(1865~1908)*です。彼は13歳の時に奉公人として採用され、東風平間切内の按司地頭御殿に勤務します。彼のように農村の優秀な子弟を10代前半で選抜して村内(あるいは首里)で教育を施すのが一般的でした。奉公人は租税の軽減など様々な特権を有していましたが、最大の特徴は文字の読み書きができたことです。
*謝花昇の伝記は数多く発刊されていますが、幼少期に奉公人として採用されたエピソードを記載していない伝記は信用してはいけません。
奉公人は琉球王府の地方行政においてまさに必要不可欠な存在で、彼らの力がなければ王府は貢租の徴収や黒糖やウコンの買い取り業務などををスムーズに行うことができませんでした。悪く言えば同じ百姓階級でありながら上級士族の手先になって百姓を搾取する階層です。ただし奉公人は文字の読み書きなどの学業だけでなく村内の様々なトラブルの仲介も行っていたため高度なコミュニケーション能力が必要でした。百姓側にとっても必要不可欠な存在なので一概に地頭の手先として糾弾することはできません。
琉球王国時代の社会階層は大名、士、百姓の3つで、相互間に交流がほとんどなくその結果社会の上層階級である大名(王、地頭などの有禄士族)が堕落した件は前述しましたが、実は階層内にも深刻な対立があって琉球国内はバラバラの状態だったのです。一例をあげると那覇と首里の士族の仲は最悪ですし、百姓階級も間切間の交流がないために「同じ百姓である」という連帯感が皆無です。
産業経済は最低最悪、住民間に相互交流がなくてバラバラの状態で1872年(明治5)に琉球国は琉球藩に鞍替えします。歴史を振り返ってみるとこんなところを引き取った明治政府のお人よし*には本当にびっくりしますが(あとからとんでもない不良債権だったことが判明)、いったん引き取った以上は責任を持って対処しなければなりません。では琉球藩の時代に明治政府がどのような対策を実施したのかを記載していきます(続く)。
*明治政府は琉球国だけでなく、当時東アジアで最悪の状態だった朝鮮半島すら引き取っています。やむを得ないとはいえ琉球王国なぞ比較にならないほどの惨状だった朝鮮半島を経営しようとした日本人は本当にお人よしかつおせっかいやきの民族だと思います。